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寒い朝

 寒い朝だった。
 布団にもぐりこんだまま、手探りで時計を探し、時間を確認する。
 午前6時40分。
 通常なら出勤の準備をしなければならない時間だが、幸いにも今日は休みだった。
 もう一眠り、と思って布団をかぶり直すと、ドンドンドンと無遠慮にドアを叩く音がした。
「ちゅーい!雪だ!外白いぞ!起きろ!」
 ・・・絶対起きたくない。
「ちゅーい!寒い!開けてくれ!まだ寝てるのか!もう朝だぞ!リーザちゃーん!」
 無駄に元気な恋人の声にため息をつきながら、私は渋々起き上がって近くにあったセーターをかぶった。

「なんでこんな朝早くにうちにくるんですか。」
 上機嫌な恋人とは対照的に、私の不機嫌は眠気も手伝ってMAXだった。
「夜勤明けだ。」
 湯気の立つジンジャーミルクティーを飲みながら、彼は言った。
 体があったまってきたせいか、鼻水が垂れている。
 私はティッシュをとって、ぐいぐいとその鼻を拭った。
「ちょっ!リザさん!痛いって!」
「鼻、たれてます。色男にあるまじきみっともなさです。」
「仕方ないだろ!外、寒かったんだ!」
「まっすぐ家に帰ればいいでしょう。」
「家に帰ったって寒いだろう!」
「うちに来たって寒いでしょう!」
「そうでもない。これ、すごくおいしい。」
「そうでしょうね。非番にゆっくり朝寝坊しようとしてたところを叩き起こされても嫌な顔一つせず丁寧に作ったミルクティですからありがたくゆっくり味わって飲んでください。崇め奉ってくださって結構ですよ。」
「君、ちょっと怒ってる?」
「いいえ、全然。」
 私はにっこりと笑顔を向けた。
 彼はそれを見てやや頬を引きつらせた。
「大体、なんでいちいち私を起こすんですか。」
 私は自分も紅茶を飲みながら、彼に文句を言った。
「鍵、持ってるでしょ!」
「持ってる。でも君に開けてもらえる方が嬉しい。」
「あなたの嬉しいを私に押しつけないでください。」
「それにほら、外、雪降ってるんだぞ。嬉しいだろ。」
「犬や子どもじゃあるまいし。雪なんて寒いだけです。」
「あとで雪合戦しよう!」
「夜勤明けでしょう。寝てください。」
「雪に興奮して眠れん。」
「子どもですか!それとも犬ですか!」
 呆れたようにそう言っても、彼は鼻を赤くしたままヘラヘラと笑った。

 モーニングでも食べにいこうと、彼と外に出た。
 繋いでこようとする手をバシッと振り払うと、彼は不満そうに口を尖らせた。
「何をする。」
「人目につきます。」
 わざと素っ気なくそう言うと、彼は苦虫をつぶしたような顔で黙った。
「雪なんて積もってないじゃないですか。」
 寒さに背中を丸めて歩きながら、私は言った。
 確かに小さな小さな白い細雪がさらさらと降ってはいたが、車や畑の上をうっすら白く染めている程度で、雪合戦どころか小さな雪兎すら作れそうにない。
「うん。でももうすぐ積もるかもしれないだろう。」
 彼は雪遊びに前向きだが、この程度の雪で、しかもこれから昼に向かって多少なりとも気温は上がるのだからやはり無理だろう。
「誰かさんが無能になるのは雨の日だけではないんですよ。」
 わざとそう指摘すると、彼は目を眇めて睨んできた。
「無能って言うなよ。」
「私は誰とも言ってませんよ。」
「はいはい。無能な上官で申し訳ないね。」
「無神経な恋人も追加してください。」
「やっぱり怒ってるのか。」
「いいえ、別に。」
 彼の指先が私の手の甲に触れた。
 また手を繋ごうとしているのかとそっと彼の顔を窺ったが、彼は素知らぬ顔で歩いている。
「雪が降るとわくわくするよな。」
「わくわくですか?」
「うん。いつもと同じ道なのに、いつもと違う風景に見える。」
 そう言われて、私も辺りを見回した。
 うっすらと雪化粧で白く染まった町は、確かにいつもと同じ風景なのに、いつもよりずっと静かで厳かだった。
「きれいですね。」
 珍しく素直にそう感想を述べると、彼は嬉しそうに口元を綻ばせた。
「ほら。早起きしてよかったろ?」
「それとこれは別です。」
 冷たいな。
 彼はそう嘆いて、肩をすくめた。
 彼の指が、また私の手に触れた。
 今度はそれを振り払わず、冷たい指先だけそっと絡めた。


優秀な彼女

「君、首席卒業じゃなかったの?」
 士官学校時代の話から成績の話になり、ロイは首を傾げた。
「違います。」
 甚だ不本意、といった面持ちでリザは頷いた。
「君の同期に君以上に優秀やつなんかいたっけ。」
「レベッカですよ。」
 その言葉に、ロイは驚いて飲みかけていたコーヒーのカップを下げた。
「カタリナ少尉?」
「そうです。」
「確かに彼女は優秀だが・・・」
 そう言ってロイは眉を寄せた。
「しかし彼女、玉の輿狙いで軍に入った、って言ってなかった?」
「そうですよ。」
「そういう目的の女性軍人はかなり多い。だが大抵は可もなく不可もなく無難にこなすものなんだがな。」
「賭けをしたんです。入学して最初の試験の時に。」
 そう言って彼女はコーヒーを飲んだ。
「賭け?」
 首を捻りながら、ロイは繰り返した。

「賭け?」
「そうよ。」
 怪訝な顔をするリザに、レベッカは強く頷いた。
「今度の試験、総合点の高かった方のいうことを1つきくの。」
「ふーん。レベッカ、私に何して欲しいの?」
 あまり乗り気ではなかったがそう尋ねると、レベッカはリザにビシッと指を突きつけた。
「合コンに付き合いなさい。」
「合コン?」
「あんたがいるとイケメン率があがるのよ。」
 その言葉にリザは肩をすくめた。
「興味ないわ。」
「そう言うと思った。だから勝負しよう、って言ってるの。」
「私が勝ったらレベッカ何してくれる?」
「何でもどうぞ。言ってみなさいよ。」
「別にないけど。じゃあ、フィフティ・ファイブのとびきりベーコンサンドおごってもらおう。」
「いいわよ。セットでおごっちゃう。」
「太っ腹ー。」
「あんたこそ合コン用の服くらい準備しときなさいよ。」
 念を押すようにレベッカがリザにそう釘を刺すと、リザはめんどくさそうに顔をしかめた。
「えー、いる?」
「あんたね、あんまり調子に乗ってると泣くわよ。私、こういうのすごく要領いいんだから。」
 はなからまったくやる気のない様子のリザに、レベッカは口角をあげた。

 せーの、でお互いの試験結果を見せ合い、リザは目を見開いた。
「嘘!なんで!」
「だから言ったでしょ。」
 レベッカは得意げに自分の成績表をひらひらとさせた。
 リザはレベッカの成績表を奪い取るようにひったくると、まじまじとそれを見つめた。
 射撃の成績はリザの方が上だった。
 しかしそれ以外の科目すべて、レベッカの点数がリザのそれを2、3点上回っている。
「なんでよ!あなた全然勉強してなかったでしょ!」
「したわよ。2週間くらい。」
「なんでそれでこの点数?」
「あんたと合コン行くためだもん。ちょっとがんばっちゃった。」
「ちょっと?」
「まあ、ちょっとね。」
 プルプルと震えるリザの背中を、レベッカは軽く叩いた。
 リザはキッと顔をあげると、レベッカに詰め寄った。
「次!もう一回!」
「何が?」
「もう一回勝負しましょ!」
「いいけどあんた負けたらまた合コンよ。」
「合コンでもなんでも付き合うわよ!」
「紙の上でしか勉強しないあんたに負ける気はしないけどね。もし負けたら合コン用に、洋服フルコーデで買ったげるわ。」
「その言葉!絶対後悔させたげるから!」

「結局1回も勝てなかったんですよね。」
 どこか遠い目でそう呟いたリザの言葉に、ロイは耳を疑った。
「1回も?」
「はい。1回も。」
 リザはため息をついて、冷めたコーヒーを飲み干した。
「私を合コンに連れ出すために猛勉強してたらしいです。私だってしてたのに。」
「その結果が首席卒業になるわけか。そこまで行くと清々しいな。」
 ロイは苦笑いして、自分もコーヒーを飲んだ。
「しかし同じように猛勉強したのに、どうして勝てなかったんだろうな。」
「私もそれを訊いたことがあります。」
 リザはテーブルに置いていたリトルチョコの包みをはいで、口に放り込んだ。
「レベッカ、なんて言ったと思います?」
「なんて言ったんだ?」
「優秀であることと、テストで点が取れることは同義じゃないのよ、と。」
 苦々しくそう言ったリザの顔には、未だに悔しさがにじみ出ているようで、思わずロイはふきだしそうになった。
「なるほど。そういえば昔ヒューズも同じようなことを言ってたな。しかし、私は思うんだが。」
「なんですか?」
「そういう考え方をするやつは総じて優秀だと思う。」


彼の指

 気怠い体を丸めるようにして、彼女はロイの顔を見つめた。
「なんだ?」
 こちらもまだ荒い息が整わぬまま、ロイは彼女の頬を指でなぞった。
「いえ、別に。」
 閨はまだ熱気がこもっている。彼女はしっとりと汗ばんだ肌のまま彼にすりよった。
「あの、大佐って。」
「なんだ?」
「もしかして、こういうのすごく上手い方ですか?」
「こういうの、とは?」
「だから、いわゆる女性とどうこうすることです。」
 質問の意図を正確に理解し、目をそらした恋人の顔を彼はぐいっと両手で固定した。
 その目の奥に怒りの感情を認め、彼女は体を強張らせた。
「誰と比べた?」
「・・・は?」
 低くうなるような彼の問いに、彼女は眉をひそめた。
「上手いだ、なんだ、というのは比較の言葉だろう。」
 今すぐ相手を燃やしに行きかねない彼の剣幕に、彼女はふるりと震えた。
「別に誰とも。」
「誰とも?」
「しいて言うなら・・・」
「誰だ?」
「自分、でしょうか。」
 彼女の言葉に、彼はきょとんとした。
「・・・は?」
「だから自分。つまり私です。」
 己の顔を指さしてそう続けた恋人の言葉を咀嚼し、飲み込んだらしい彼は、毒気を抜かれた顔で彼女の横に倒れ込んだ。
「なんだ、それ。」
「だから・・・」
 別に深い意味があったわけではなかったのだが、その疑問を抱いた経緯に彼女は顔を赤らめた。
「さっき。あなた言ったじゃないですか。」
「何を?」
「自分で触れ、って。」
 言ってて恥ずかしくなり、彼女は顔を伏せて布団を頭までかぶった。
「いいトコロ。自分で触って、って。」
「・・・ああ。」
 先ほどの情事を思い起こし、彼は頷いた。
 確かにそう言った。
 それ自体に特に意味はなく、セックスを盛り上げる単なる演出と言葉責めのつもりだったが。
「それで?」
「だからその・・・もどかしい、っていうか。」
「もどかしい?」
「届かない、っていうか。」
「届かない?」
「だから!あなたにされてるときはそんなふうに思ったことないんですけど!自分で触っても、その、いまいち気持ちよくないというか物足りないというかなんか違うというか!」
「なるほど。」
 彼女の言いたいことをなんとなく理解した彼は、ニヤニヤと先を促した。
「それが私の経験不足によるものなのか!あなたの経験豊富故なのか!どっちなのかな、って。」
 それだけです!と言って、布団にくるまってみのむしのようになったような彼女はくるりと彼に背を向けた。
「他の男がどんなセックスをするかなんてまったく知らんな。興味もないし。」
 そう言って彼はみのむしの恋人を抱き寄せた。
「しかし、こと君に関して言えば誰よりも君を理解している自負はある。もちろん君自身よりもだ。」
「・・・ちょっと自意識過剰じゃないですか?」
「いいや、まったく。」
 彼はにやりとしたまま、彼女の布団をはいでその胸の頂点に口づけた。
「!ちょっと!」
「不満だったのか?」
「何がですか!」
「さっきの。」
「なんで!」
「もどかしくて届かなくて物足りなかったんだろ?」
「!違っ!」
「不満ならそう言えばいいのに。」
「だから違いますって!」
「君のいいトコロ、今度は私がじっくり教えてあげよう。期待してくれていい。」


年始め

 1階のリビングに降りると、いつもパタパタと忙しそうなリザがテーブルに突っ伏していた。
「おはよう、リザ。」
 そう声をかけると、リザは顔をあげた。
「マスタングさん。おはようございます。」
「具合でも悪いの?」
 普段元気いっぱいのリザが静かだと心配になる。
 落ち着かない気分でリザの隣に座り、髪をなでようとすると、リザがすっと指をさした。
「それです。」
「これ?何?」
「茶碗蒸しです。」
 リザはため息をつきながら、テーブルに置いてあった茶碗を1つ引き寄せ、ふたを開けた。
「また失敗です。今年も大失敗。」
 ロイは茶碗の中を覗き込み、納得した。
 どうやら火を通しすぎたらしい茶碗蒸しはスがたってでこぼこしており、おまけに縮んでいた。
「去年は蒸しがあまくて全然固まってなかったんです。今年こそは、って思ったのに。」
 落ち込んで肩をおとすリザを慰めようとすると、音もなく師匠がテーブルにつきロイは飛び上がるほど驚いた。
「あ、師匠。おはようございます。」
 師匠がぎろりとロイを見たが、何も言わなかった。
 テーブルの茶碗蒸しを引き寄せ、うまいともまずいとも言わず黙々とそれをたいらげると、現れたときと同じように音もなく席をたった。
「お父さん、あの・・・」
 何か言いかけたリザを師匠はただの一瞥で制した。
「悪くない。だが精進しろ。」
 それだけ言うと、師匠は気むずかしい顔で2階にあがった。
「・・・去年と同じ。」
 リザは苦笑して、自分も茶碗蒸しを引き寄せた。
「マスタングさんもどうぞ。失敗作ですけど。」
「ちょっとスがったってるだけじゃないか。味は変わんないだろ。」
 ロイはそういうと、匙で大きく茶碗蒸しをすくい、口に入れた。
「うん、うまい。」
「味、変わりますよ。全然違うんですよ。」
 そう言ってリザは口を尖らせた。
「茶碗蒸しって材料も作り方もシンプルなのに難しいんですよね。なかなかおいしくできなくて。」
「十分おいしいけど。」
「食感が命の茶碗蒸しがカチカチになっちゃったらやっぱり失敗ですよ。」
 リザは茶碗蒸しをつつきながら眉間に深いしわを寄せた。
「去年もおととしも同じことを父に言われました。悪くない、だが精進しろ。」
「ふーん。厳しいな。俺だったら賞賛の言葉しか思いつかない。」
「マスタングさんは何作ってもおいしい、って言ってくれるから料理のしがいがありますね。」

「大佐!起きてください!朝です!早く!早く来て!」
 恋人と初めて迎える新年は、普段冷静な彼女には似つかわしくない、にぎやかな声から始まった。
「・・・眠い。もうちょっと・・・。」
「ダメです!ほら!いいから来て下さい!今すぐ!大至急!」
 強引に布団を引っぱがされ、蹴り飛ばされるようにベッドを追われ、ロイはあくびをしながら上半身裸のままリビングに向かった。
「何?」
「ちょっとこれ見てください!」
 得意げな彼女の指さしたところには、蒸したてらしい茶碗蒸しが2つのっていた。
「茶碗蒸しか。」
「ふたとってください。ほら、早く。」
 子犬を連想させるキラキラした目でそう促され、ロイはふたをとった。
「おー!」
 ほとんどスのたっていないつるりとしたきれいな表面に、三つ葉の緑が映えている。
「食べていい?」
「どうぞ。」
 匙を入れると、ほとんど抵抗なく、それでいて崩れもせずにふるりと揺れたそれを口に入れた。
「うまっ!うまいな、これ!」
「本当ですか?」
 リザは小さくガッツポーズして、自分も茶碗蒸しを食べた。
「これ!ほらこれですよ!茶碗蒸し!」
「これですよって。」
「久しぶりに作りましたけど、こんなに上手にできたの初めてです!懐かしい!」
「懐かしい?」
 ロイが首を傾げると、リザは頷いた。
「お正月に母が作ってたんですよ。父も私もそれが大好きで。母が亡くなってからは私が作ってたんですけど、結局父には褒めてもらえませんでしたね。」
 少し寂しさの滲んだその言葉に、ロイは胸を衝かれた。
「・・・私が褒めてるんだからいいじゃないか。」
 なんとかそれだけ言うと、リザは笑った。
「そうですね。大佐はいつもおいしい、って言ってくれるから作りがいがあります。」
「いつもおいしいよ。」
「ありがとうございます。精進します。」
「師匠だってそう思ってたぞ。口にしなかっただけで。」
「そうかもしれませんけど。でもやっぱりおいしくできたのを食べてもらいたかったですね。」
 ロイは少し考え、それからニヤリと口角をあげた。
「それはしょうがないな。私がおいしくいただきました、と師匠の墓前で自慢することにしよう。」
「意地悪な人ですね。」
「あの世にいったら燃やされるかもしれないな。そのときは君が骨を拾ってくれ。」


君となら

 コーヒーを淹れて上司の執務室に入ると、彼はソファにだらしなく横になっていた。
「少し休憩なさいますか?」
 リザは応接のテーブルにコーヒーを置いた。
 邪魔にならないようその場を離れようとすると、彼の手にそれを阻まれた。
「どこ行くんだ?」
「まだ少し仕事が残っていますので。」
「少し?」
「少しです。」
「少しならもうちょっとそばにいてくれ。」
 彼は起き上がると、ソファの端によってスペースをあけた。
「ほら、ここ。」
「上官と並んで休憩なんてできません。」
 にべなく断ると、彼は小さくうめいた。
「他に誰か残ってるのか?」
「いいえ。」
「年の暮れだもんな。こんな日にこんな時間まで仕事してるなんて君と私くらいのものだ。」
「書類仕事をためておられたのはあなたの自業自得でしょう。」
「ひどいこというなよ。まさかこんな年末にテロが起きるなんて思わないじゃないか。」
「テロはともかく、年末に事件が多いのはいつものことです。」
「鮮やかなスピード解決は私の努力の賜だろう。」
「そうですね、お疲れ様です。その勢いでこちらの書類も速やかに片付けてください。」
 わざとそう告げると、彼は長いため息をついて頭を抱えた。
 ・・・少し意地悪が過ぎたかもしれない。
 リザは踵を返すと、大部屋につながるドアを開けて外に誰もいないことを確認し、再びドアを閉めて鍵をかけた。
「中尉?」
 怪訝な顔でリザを見る彼の額にキスを贈り、その横に座る。
「少し休憩です。」
 そう言ってポンポンと太ももを叩くと、彼はすぐにその意図を理解し、顔を綻ばせた。
 無邪気としか言いようのない顔でいそいそと膝枕をしてくるその様子は、呆れるを通りこしてかわいくすら思えてくる。
「君となら残業も悪くない。」
 太ももをなで回そうとする不埒な手をバシッと叩き、リザは眉をひそめた。
「私は早く帰りたいです。」
「明日は休みだろう?」
「そうですね。」
「あさってもしあさっても休み。君とそろって3日も休めるなんて夢みたいだ。」
「何も起きなければ、という条件付きですけどね。」
 年末年始に何か起きるのもいつものこと。
 言外にそう匂わせて釘を刺すと、彼は頭をすり寄せてきた。
「不吉なこと言うなよ。」
「あなたと過ごせるなら、たとえそれが仕事でも私は十分嬉しいですよ。」
「家だろうと仕事だろうと、君といられるなら私だって文句はないよ。だからといっていちゃいちゃが足りているか、と問われれば大いに不満であると答えるがね。」
「いちゃいちゃしたいですか?」
「・・・したい。正直に言うと今すぐ押し倒したい。」
「ここじゃ嫌です。」
「わかってるよ。」
 彼は上半身を起こすと、じっとリザの目を見つめた。
「キスしてくれ。」
「キスですか?」
「うん。そうしたらもう少し頑張れそうだ。」
 頑張れそうも何も、頑張らねばならないのが彼の職務であり責任である。
 そう告げて拒否することもできたが、彼の目を見ているとつい吸い寄せられるように唇に触れてしまった。
 軽く触れると同時に抱き寄せられ、さらにソファの背に押しつけられた。
 驚いて開きかけた唇の隙間から舌を入れられ、絡められ、さらに強く吸い上げられる。
「・・・っん!」
 声がこぼれた。
 どちらのものともつかない唾液が唇の端から滑り落ちる。
 散々嬲られ、蹂躙され、ようやく解放されるとリザの息はあがっていた。
「何するんですか!」
「ごめん。つい夢中になった。」
 白々しい笑顔でそうのたまった彼の頭を、リザはバシッと叩いた。
「帰ります!」
「え?」
 勢いよく立ち上がってそう宣言すると、彼は慌てたように腰を浮かせた。
「だって・・・仕事は?」
「休み明けにします!もう待ちません!残りはお一人でどうぞ!」
「は?え?冗談だろ!」
「1時間待って帰ってこなかったら先に寝ますからね!絶対待ちませんから!」
 言い捨てるようにそう告げて、呆然とするロイを尻目にリザは執務室を出ると、乱暴にドアを閉めた。
 左手で口を押さえ、息を整え、司令部内に誰も残っていないことに心から安堵する。
 あんなふうに触れられれば欲しくなる。リザだって。
「・・・あれだけ言っとけば1時間以内には帰ってくるでしょ。」
 火照る頬を軽く両手で叩き、リザはわざとゆっくりと帰り支度を始めた。


恋ダンス

 年の瀬迫る12月半ば頃、親友はたいそう難しい顔をしてリザの元にやってきた。
「リザさん、お話があります。」
「それは重要なことでしょうか。」
「とても重要です。視聴覚室へご同行いただけますか。」
「この書類だけ4時までに完成させなければなりません。30分、お時間いただけますか?」
「わかりました。お待ちしています。」
 2人は完璧な敬礼を交わし、別れた。
「・・・なんっすか、今の茶番は。」
 2人の様子を見ていたブレダは、呆れたようにリザに言った。
「さあ。でもたいしたことじゃないと思うわ。」
 リザはそう言って背伸びをした。
「くだらないことに付き合わすときに限ってああいうしゃべり方するのよね。」
 リザはそう言って肩をすくめ、作りかけだった書類に目を落とした。
「仕方ないわね。ちゃちゃっとやっちゃいましょ。」

 最近リザが変だ。
 ロイは自分の執務室で悩んでいた。
 なんだかんだ文句を言いながらもロイの仕事が片付くまで待っていてくれた彼女が、最近定時になると風のように去って行く。
 今日こそは、と定時より早めに仕事を切り上げても、大部屋を覗くと既に彼女はいない。
「おい、大尉は?」
 イライラと近くにいたブレダにそう訊くと、ブレダはくわえていたビスケットを慌てて飲み込んだ。
「カタリナ中尉に呼ばれてどっか行きました。」
「カタリナ中尉?どっか、ってどこ行った?」
「俺が知るわけないでしょう。」
 ブレダの言葉に、ロイは呻いた。
「最近、大尉変じゃないか?」
 ブレダにそう訊くと、ブレダは首を傾げた。
「そうっすか?」
「定時になるといなくなるし。」
「仕事は片付いてますよ。」
「そのくせ帰ってくるのは遅いし。」
「何時ですか?」
「7時半くらいだ。」
「そんな遅くもないじゃないですか。」
「夕飯を食べ終わると、ものすごい勢いで片付けて、翌日の夕飯の下ごしらえまでしてるんだ。」
「さすが大尉。手際がいいですね。」
「朝もめちゃめちゃ早く出て行くんだ。ていうか、私が起きたらもういないし。」
「ああ。俺、先週夜勤明けにロビーですれちがいましたよ。6時頃でしたかね。」
「そんなに早く出勤して何してるんだ!」
「本人に訊けばいいでしょうが。」
「・・・なんか殺気立ってて聞けないんだ。」
 なんとも情けないことを言いながら、ロイは眉を下げた。
「昨日もずっと何かブツブツ言ってるんだよ。時間ないのに、とかなんとかかんとか。」
 あとなんかずっと口ずさんでるんだよな。どっかで聞いたような音楽なんだけど。
 時間がない、殺気立ってる、音楽、と聞いてブレダはピンときた。
「もしかしてこれじゃないっすか?」
 そう言ってブレダは掲示板に近づき、1枚の書類をトントンと叩いた。
「ん?なんだ?」
 ロイはブレダの指した書類をじっと見た。
「忘年会?」
「ここっすよ。余興参加者募る。最優秀者には・・・」
「・・・牛肉5万センズ相当。」
 ロイは納得したようにため息をついた。

 当日、首に白いファーを巻き、ノースリーブの赤いミニスカワンピースで舞台にあがったリザとレベッカはまずその衣装で観客の注目を集め、さらにキレのあるオリエンタルなダンスを完璧に踊りきって喝采を浴びた。
 牛肉5万センズ相当は、マスタング組及びレベッカを加えたマスタング家のすき焼きパーティで全員の胃袋を満たすこととなった。


憧れの彼女

 その人は、いつも窓際でミルクティを飲んでいた。

 僕のバイトしているパン屋は、東方司令部に近いこと、早朝4時から営業していること、テイクアウトだけでなくイートインコーナーも併設していることなどを理由に、夜勤明けまたは早朝勤務の軍人に重宝されているようだった。
 その人を初めて見たのは、僕がバイトを始めて間もない頃だった。
 ショートカットできれいな金髪の彼女はほとんど化粧をしていないこともあり、僕と同じくらいか、むしろ年下に見えた。
 実際は高校に入ったばかりの僕より3つは年上で、おまけに東方司令部の軍人でもあった。
「かわいいよね、あの子。」
 僕にそのことを教えてくれたオーナーの奥さんは目を細めてそう教えてくれた。
「クロワッサンと塩パンがお気に入りなんだよね。」
 そう言われてよく見てみると、夕方に来るときは必ずクロワッサンと塩パンを買っていくようだった。
 彼女が夕方にお店に寄るのはそう頻繁ではなく、せいぜい週に1、2回程度だった。
 その代わり朝は毎日のようにきていた。
 ミルクティを1杯買い、窓際のイートインコーナーでゆっくりそれを飲み、15分ほどで出て行く。
「ありがとうございました。」
 そう声をかけると、彼女は振り向いて小さく手を振った。

 ある日、彼女が店に来なくなった。
 転勤でもしたのだろうか、と落ち込んでいたが半年くらいでまた顔をだすようになった。
「お久しぶりですね。」
 そう声をかけると、彼女はびっくりしたように目を見開いた。
「西方司令部にね、出向してたの。」
「大変ですね、軍人さんは。」
「ありがとう。」
 そう言って彼女はミルクティを注文し、窓際のイートインコーナーでゆっくりそれを飲んだ。

 それを境に、彼女が店を訪れない朝が増えた。
 夕方に買うパンの数が増えた。
 ショートカットだった彼女の髪は、いつの間にか肩より下になっていた。
 もう年下には見えなかった。
 けれども彼女は相変わらず出勤前に店を訪れ、窓際でゆっくりミルクティを飲んだ。
「好きですか、ミルクティ?」
 1度そう訊いたことがあった。
 彼女は驚いた様子もなく少し考え、頷いた。
「そうね。外で飲むならここが1番おいしいと思うわ。」
 僕は高校を卒業し、地元の大学に進んだ。
 バイトはそのまま続けていた。
 卒業まで残り半年となった冬の初め、珍しく彼女に話しかけられた。
「今日が最後になるかも。」
 僕は彼女を見つめた。
「転勤ですか?」
 そう訊くと、彼女は頷いた。
「セントラルにね。」
「大変ですね。」
「でも1人じゃないから。」
 彼女はにこりともせず表情1つ変えなかったが、なんとなく仕事の話だけではないように感じた。
「そうだ。じゃあ、これどうぞ。」
 僕は従業員のおやつ用に置いてあるリトルチョコを、ミルクティと一緒に差し出した。
「ありがとう。でも遠慮しておく。」
「僕のおやつのお裾分けです。お得意さんにサービスくらいさせてください。」
 彼女はかすかに口元を緩めて、チョコを受け取った。

 数年たって、たまたま東方司令部の前を通りがかった。
 僕は足を止め、彼女がいたであろう建物をしばらく見つめた。
 もう彼女の顔もうろ覚えだった。
 すれ違ったとしてもきっとわからない。
 歩き出そうとすると、足下を小さな影が2つ駆け抜けていった。
「おかしゃん!」
 彼女らは、東方司令部から出てきた女性に飛びついた。
「ルミ!ルナ!」
 その声に、鮮やかに記憶がよみがえった。
「え?なんで?どうやってきたの?おとーさんは?」
「お迎え、きたの。」
「おとしゃんにつれてきてもらったんだよ!」
「おとしゃんね、今日すごく早く帰ってきたの。」
「おかしゃんのお迎え行くから頑張った、って言ってた!」
 瞬きもせずその女性を見つめていると、軍人らしく背筋の伸びた黒髪の男性が彼女に近づいた。
 彼女はふわりと柔らかく笑った。
「わざわざありがとうございます。」
「明日休みだからな。」
 男性は彼女の足下にまとわりついていた2人の女の子を抱き上げた。
「駅前にホテルを予約したんだ。今日はそこに泊まろう。」
「いいですね。そうだ。明日の朝ご飯、ラッセンで食べませんか?」
「この近くのパン屋だっけ。まだあるのか?」
「こっちに出張にきたときはいつも寄ってますよ。」
「あそこのミルクティがお気に入りなんだよな。」
 1人こっちおいで、と彼女は男性から女の子を受け取った。
 ルミずるい!とふくれた女の子の頭をなでて、「ルナはあとでね」と彼女は笑いかけた。
 そのまま家族と遠ざかっていく彼女の影を、僕は温かい気持ちで見送った。


君の隣

 家に帰ると、夫がソファで枕を抱えてうたた寝をしていた。
 寝るならベッドで寝ればいいのに、と思いながら、私は上着を脱いで寝室のクローゼットにしまった。
 ついでに毛布を持って夫の元に戻り、そっとその体にかける。
 彼はムニャムニャとよくわからないことを呟きながら、枕にぐりぐりと頬ずりをしていた。
 随分間抜けな顔、と面白くなって観察していると、彼は枕に顔を埋めてスウスウと寝息をたて始めた。

 ・・・よく見るとこれ、私の枕だわ。

 夫が私の枕を抱えてソファで眠っている。
 どうしてそういう状況なのかよくわからないが、おそらく寂しかったのだろう、と私は推測した。
 この1週間、私は大総統について東方司令部に出張に出ていた。
 今日中に帰ると夫には伝えていたが、諸々の都合で少々帰るのが遅くなってしまったのだ。
 夫の黒髪をなでてみると、彼はだらしなく口元を緩めた。
 何かもごもごと言っているので耳を寄せてみると、「もっとなでて」などと呟いている。
 もしかして起きているのだろうか、と目をこらしてみたが、相変わらず寝息をたてているし、開いた口からよだれも垂れている。

 ・・・それは私の枕なんですが。

 もしかして出張の間、ずっとこうやって私の枕を抱いて寝ていたのだろうか。
 それは別にかまわないが、いくら愛しい夫であっても、頭をのせる枕がよだれで汚されるのは少々いただけない。
 私は彼の鼻をつまんだ。
 口呼吸だけでは苦しいのか、フガフガと口をパクパクとさせ、彼はうっすらと目を開けた。
「お目覚めですか?」
「・・・おかえり。なんで鼻つまんでるの?」
「ソファで寝ると風邪を引きます。ベッドで寝るために起こそうと思いました。」
「普通はキスするとこだろ?」
「美しいお姫様と白馬の王子様ならそれも絵になりますが、よだれをたらして妻の枕を汚す不届き者にはこれで十分です。」
「枕?」
 彼は起き上がると、自分が手に持っていた枕をまじまじと見つめた。
「あー・・・そうだ。君がなかなか帰ってこないから、ちょっとだけ目をつぶってようと思ったんだ。」
「どうして枕を?」
「落ち着くんだ。君が隣にいるみたいで。」
 そう言って彼は枕に顔を埋めた。
「君の匂いがする。」
「はいはいそうですかよかったですね。本物が帰ってきたんだからこっちにしたらどうですか。」
 にこりともせずそう言って誘うように両手を広げると、彼は驚いたように目を見開き、それから唇の端をすこし上げた。
「なんだ。寂しかったのか?」
「いいえ、別に。じゃあいらないですか?」
 私がそう言ってさっさと両手を引っ込めると、彼は慌てたように立ち上がった。
「ま、待て!いる!いるぞ!」
「もう時間オーバーです。残念でしたね。」
「なんでそんな意地悪するんだ!」
「私は疲れたのでシャワーを浴びてきます。」
「一緒に入るぞ!」
「嫌ですよ。私が出てくるまで、もう少しその枕で我慢してたらどうですか?」
「枕じゃだめだ!君がいい!あ、こら!逃げるな!」
 彼の伸ばした手をすり抜けてバスルームに逃げ込もうとしたが、寸前に彼に阻まれた。
 押さえつけられそうになったところをするりと抜け出して、私は彼と体勢をいれかえた。
「・・・寂しかったです。本当は。」
 私はにっこりと笑ってそういうと、何かを言いかけた彼の唇を自分のそれでふさいだ。
 実は出張の間、寂しさを紛らわせるために彼のシャツを持っていったことは内緒だ。


あなたの隣

 ただいま、と言ってリビングに入ると、ソファで雑誌を読んでいたらしい同居人はびっくりしたように目を瞠った。
「お帰りは明日の予定では?」
「終電に間に合ったんだ。」
「お食事は?」
「汽車に乗る前に軽く食べた。それより・・・」
 ソファを立とうとした彼女の腕を引いて隣に座るように促し、私はまじまじと同居人を見つめた。
「ずいぶんかわいい格好だな。」
 彼女は不機嫌そうに顔を背けた。
 彼女が着ていたパジャマは、色もサイズもいつもとは違っていた。
 黒っぽい厚手の生地は彼女が着るには地味すぎるし、襟ぐりが大きくあき、袖も長すぎる。
 ズボンも丈が長いようで、ウエストは胸のすぐ下まできてるし裾も少しまくっていた。
「着替えてきます。」
 素っ気なくそう言った同居人を押さえつけて、私は彼女のパジャマの下に手を入れた。
「まあまあ、そんなに急がなくてもいいじゃないか。」
「手が冷たいです。おやめください。」
「着替え手伝おうかと思って。」
「お気遣いは不要です。ていうか、離してください。」
「疲れて帰ってきた恋人に随分冷たいじゃないか。」
「お疲れならシャワーでも浴びてきたらどうですか。」
「そうしたいところなのだがね。どうも私の着替えが現在使用中のようなんだ。」
 わざと生真面目な顔でそう指摘すると、彼女は真っ赤な顔でバシバシと私を叩いた。
 その手をつかんで頬ずりすると、伸びかけのヒゲが痛かったのか、彼女は眉間にしわを寄せた。
「君、私の出張中はいつもこれを着てるのか?」
「今日はたまたまです。」
「そういえば君1人で出張に行くときとか、私のシャツが見当たらないと思ったんだ。」
「気のせいでしょう。」
「てっきり君が出張のお供に連れてっているんだと思っていたよ。」
 図星だったらしく、彼女は私を睨んだもののそれ以上は何も言わなかった。
「何か飲みますか。」
 抵抗を諦めたらしく、彼女は私にもたれかかるようにしてそう訊いた。
「いいね。でももうちょっとあとにしようかな。」
 私は彼女を背中から抱きしめて、その首筋に鼻をつけた。
「・・・君の匂いがする。」
「あなたの匂いじゃなくて?」
「違う。君の匂い。すごく癒やされる。」
 そう言って耳たぶを甘噛みすると、くすぐったかったのか彼女は首をすくめた。
「・・・癒やされますか?」
 彼女がそう訊いたので、私はさらに彼女の背中にすり寄った。
「君がいなくて寂しかったよ。特に寝るとき。」
「それについては同感です。」
「なんだ。やっぱり寂しかったのか。」
 くっくっ、と押し殺したように笑いをこぼすと、彼女は渋々といった体で頷いた。
「そうですね。少なくとも代替品にあなたを求める程度には。」
 相変わらず口調は素っ気ないが、彼女らしからぬ甘い表現だ。
「本物が帰ってきたんだからもう少し素直に甘えたらどうかね。」
「あなたが甘やかしてくれるので十分です。」


彼の野望

 ロイに着るように促された紙袋の中身を手に、リザは硬直した。
「リザさーん!着れた?」
 寝室の外から、心なしか浮かれたようなロイの声が聞こえてくる。
 しかしこれを着るのか?この年で?
 若干の抵抗を感じながら、リザはとりあえず着ていた服を脱いだ。
 10代からずっと軍で過ごしてきたのだから、リザの身支度はとにかく早い。
 服を整え、髪はおろしたまま、本当はスパッツかレギンス、できれば厚手のタイツを履きたいところだったが、急かすロイを無視し続けることもできず、リザは寝室のドアを開けた。
「うん!いいな、リザ!やっぱり君は最高だ!似合ってる!」
 手放しで喜び、近づこうとするロイと距離をとりながら、リザは短いスカートの裾を下に引っ張った。
「・・・なんですか、これ?」
「グラマン閣下からの餞別だ。」
 そう言いながらロイは、うっとりとしか形容のできない眼差しでリザの足を眺めた。
「タイトスカートか。でも横のスリットがいいな。実にいい。さすが閣下だ。」
「あの・・・、短すぎません、これ?」
「大丈夫。下着は見えない。」
 真面目な顔で頷くロイに、リザは目眩を感じた。
 ロイに着るように促された服は、リザにとっては慣れ親しんだ軍服だった。
 ・・・ただしボトムスはミニスカだった。
 リザ自身、過去に一度も履いたことがないほどものすごく丈の短いスカート。
「我が軍人人生に悔いなしだ。ミニスカ軍服。素晴らしいな。」
「着替えていいですか?」
「バカ言え!頑張ったご褒美に何でもしてくれるって言っただろう!」
 言った。確かにそう言った。
 リザとしては20年にわたって己を軍に捧げてきたロイを労うつもりで、たとえばロイの大好物のご飯を作るとか、軍に返却してしまった銀時計の代わりにちょっといい時計を買うとか、首から足の裏に至るまで全身オイルマッサージをするとか、まあそれに加えて多少仲良くしてもいいかなくらいは予想していた。

 しかしまさかのミニスカ軍服。
 これは完全に予想外だった。
 しかも無駄にクオリティが高い。

「脱いでいいですか?」
「ほう。なかなか積極的だな、ホークアイ大尉。」
「違います。そういう意味ではありません。」
「上官を誘惑してどういうつもりだ?一体何を企んでいるのかね?」
「えーと、何が始まったんですか?ていうか、上官役をするつもりなら、パンツとシャツで迫ってくるのはどうかと思うんですけど。」
「あ、そうか。しまった。軍服は返してしまったな。ちょっと待ってて。作ってくる。」
「お待ちください。作ってくる、とはどういう意味ですか?」
「冬用のコートと手持ちのシャツを組み合わせて、両手パンッって。」
「やめてください。コートとシャツがもったいないです。」
 リザはため息をつくと、ベッドに座った。
「あ、この眺めもいいな。・・・うーん、もうちょっと下から・・・」
 床に這いつくばろうとしたロイの頭を、リザはバシッと叩いた。
「・・・あ、じゃあ仮眠中の上官を君が襲うというシチュエーションはどうだ?」
 起き上がって床に座り込んだロイは、嬉しそうな顔でそんな提案をした。
「私が上官を襲うんですか?どうすればいいのかまったくわかりませんけど。」
「部下の方が襲いやすい?」
「そういう問題ではありません。・・・ていうかその設定の場合、つまりあなたが私の部下になるということですか?」
「うん、そう。・・・大尉、やめてください。こんなところで。誰か来たら困ります。」
「こんなところというのがどこなのかまったくわかりませんが、あなたが敬語で抵抗するのはちょっとドキドキしますね。」
「え?そういうの好きなの?意外な趣味発見だ。」
「私が襲うわけですから、当然あなたはされるがままで何もしてこないわけですね。」
「・・・え?」
「抵抗できないように両手とか縛ればいいですか?ネクタイでいいですよね?」
「・・・リザさん、あの・・・お手柔らかにお願いします。」

両思い

 中尉が。中尉は。中尉なら。
 最近ようやく意中の女と付き合うようになったらしい養い息子は、ずっとご機嫌だった。
 目尻を下げて惚気続けるロイにふんふんと相づちを打っていたマダムも、それが1時間を過ぎるとめんどくさくなってきた。
「それで?」
 同じ話を繰り返し始めたロイを、マダムは遮った。
「なんで今日は一緒じゃないんだい?」
「ん?言わなかったっけ?彼女は仕事で少し遅くなるんだ。」
 ロイはへらへらしながら、ちびりとウィスキーを飲んだ。
「今日中にイーストシティに戻らないと行けないし。彼女が迎えに来たらすぐ帰るよ。」
「あんた1人で来てもつまらないよ。今度から2人できな。」
「はいはい。・・・ていうかマダム、エリザベスちゃんお気に入りだね。」
「小憎らしい息子よりはよっぽどかわいいよ。」
 小憎らしい息子で悪かったね、とロイは肩をすくめた。
「それよりマダム、これ知ってる?」
 ロイはポケットから小さなチョコレートを4つ取り出してカウンターに広げた。
「あ、ロイさんそれ。リトルチョコ?」
 ちょうどお客を見送って戻ってきたサリーが、ロイの横に座った。
「これ、最近値上がりしたよね。ちょっと前まで10センズだったのに。」
「これはなんと45センズ。セントラル駅限定プレミアムリトルチョコなんだ。」
「へー。」
 マダムは手を伸ばして1つ取り上げた。
「食べたことないねえ。おいしいのかい?」
「あたしも1つもらっていい?」
「ちょっと!だめだって!マダム!返して!」
 ロイは慌てたように立ち上がると、マダムの手からチョコを取り返した。
「たかが45センズで随分けちくさいじゃないか。」
 マダムが呆れたように言うと、ロイは顔をしかめて大事そうにチョコをポケットにしまった。
「うるさいな。これ、人気商品なんだぞ。最後の4個だったんだ。」
「あんた、最後の4個全部買い占めたのかい?」
「20も30も大人買いしたならともかく4個くらいいいだろ。」
「そんなにチョコ好きだったかい?」
 揶揄するようなマダムの物言いに、ロイは目をそらした。
「・・・私じゃない。中尉が好きなんだ。」
 ロイの言葉にマダムは口を押さえて笑いをこらえ、サリーは遠慮なくふきだした。
「ロイさん。エリザベスちゃん、大好きね。」
「・・・なんでサリーまで中尉のことエリザベスって呼ぶの?」
「え?だってロイさんって中尉さんとエリザベスちゃんの話しかしないでしょ?」
「そうかな。」
「ロイさんの口ぶりだと同一人物にしか聞こえないもの。」
「本当?」
 ロイが驚いてマダムを窺うと、マダムは肩をすくめた。
「自分で気づいてなかったのかい?」
「全然気づかなかった。やばい、中尉に怒られる。」
「もうエリザベスちゃんに統一すればいいのに。」
「仕事の話でエリザベスが出てきたら変じゃないか。」
「じゃあ中尉に統一したら?」
「プライベートの話ができないだろ。」
「めんどくさい子だね。」
 カラン、とドアの開く音がして、手の空いていたサリーが挨拶に立った。
 マダムはグラスを磨き始め、ロイはまたウィスキーを一口飲んだ。
「ロイさん、お連れ様きましたよ。」
 サリーの声に顔を上げると、リザが隣に座った。
「何か飲むかい?」
 口角をあげてマダムがそう訊くと、リザは微笑んだ。
「じゃあモスコミュールを。」
 お酒を作りながら、マダムはチラリと2人を窺った。
 ロイがさっき見せびらかしていた1つ45センズのリトルチョコを、リザに見せている。
「ありがとうございます。」
 そう言ってリザはチョコを手にとり、2個をロイに差し出した。
「半分こしましょうか。」
「君のために買ったんだぞ。」
「おいしいものは2人で食べた方がおいしいじゃないですか。」
 そうかな、と言いながら照れくさそうにチョコを受け取るロイの顔は、過去に覚えのないほど穏やかだった。
「そうですよ。」
 そう言って微笑むリザの顔も、初めてここに来たときの無表情が嘘のように優しい。
 マダムは邪魔にならないようにそっとリザの前にお酒を置き、サリーに耳打ちをして2人の回りから人を遠ざけた。


片思い|Riza side

 東方司令部のマスタング中佐が、うちの店で酔いつぶれている。
 そう連絡を受けて、リザは繁華街にある一軒のバーの扉を開けた。
 最初に目に入ったのは、目つきの厳しい、バーのマダムだった。
 促されるように彼女の視線の先を辿ると、紛れもないリザの上司がカウンターに突っ伏していびきをかいていた。
 リザは姿勢を正して踵を合わせ、丁寧に頭を下げた。
「部下のホークアイ少尉と申します。このたびは中佐が申し訳ありません。」
「ホークアイ?」
 マダムはかすかに眉根を寄せた。
「ファーストネーム、聞いてもいいかい?」
「ファーストネームですか?リザと申します。」
 ああ、とマダムは合点がいったように頷いた。
 マダムはカウンターを回ってロイの後ろに立つと、リザも驚くほどの勢いで彼の頭をぶん殴った。
「ロイ坊!エリザベスちゃん、迎えに来たよ!」
 エリザベス?とリザは首を傾げた。

「中佐!ちゃんと歩いてください!」
 ロイを引きずるように歩きながら、リザは何度もそう繰り返した。
 わかったわかった、とへらへら頷きながら、ロイはリザにもたれかかる。
 それが重くて、熱くて、苦しくて。
 リザは横目でロイを睨みながら、駅前の宿舎へと急いだ。
「もう。なんでこんなになるまで飲んだんですか!」
 苛立ちをぶつけるようにそう言うと、ロイは「ごめん」と呟いて目を伏せた。
 そんな殊勝な態度をとられると、リザとしてもそれ以上責められない。
 グッと力を入れて、ロイを支え直す。
「少尉、すまん。」
 ロイはそう言ってリザに顔を寄せた。
「迷惑かけてばかりだ。」
「そう思うなら自重してください。」
「うん、ごめん。」
 ロイは酔って赤くなった目をリザに向けた。
「・・・少尉。」
「なんですか?」
「背中、痛くないか?」
 一瞬、何を言われたかわからなかった。
 リザが黙ると、ロイは悲しそうにうつむいた。
「ごめん。」
「どうして謝るんですか?」
 リザが掠れた声で訊くと、ロイは片手で自分の顔を覆った。
「君を、君の背中を、君のお父さんの研究を、傷つけてごめん。苦しませてごめん。君を離してやれなくてごめん。情けない男でごめん。」
 リザはすっと体が冷える感覚に身震いした。
「なんで急にそんなこと・・・」
 そう呟いたリザの声は、ロイには届かなかった。
 リザはロイを抱え直した。
 ロイは顔を覆ったまま、ぶつぶつと何か呟いている。
 胸が締め付けられるように苦しくて、リザは地面に視線を落とした。
 今なお、苦しめている。
 改めてそう思い、リザは泣きそうになった。
 苦しめたくも、悲しませたくもないのに。
 どうして割り切らないのだろう。割り切れないのだろう。
 ただ利用だけして、捨ててくれてかまわないのに。
 そうできない彼の優しさを知っててなお、そばにいる自分が卑怯なのだろうか。
 上を目指す彼の役に立つ以上に、自分の存在そのものが彼の枷になってしまうのなら。
「側にいないほうがいいですか?」
 そう訊くと、彼は驚いたように顔をあげた。
「私はあなたのそばにいないほうがいいのでは?」
 ただ枷にしかなれないのならば。
 そう思って告げた言葉は、彼の強い目に遮られた。
「嫌だ。」
 彼はそう言い切ると、いきなりリザを抱きしめた。
「絶対嫌だ。」
「苦しくないですか?」
「苦しい。」
「だったら・・・」
「君が・・・君は、私を責めないから、普段厳しいくせに、いつも1番辛い時は黙ってるから、だから、離したくないけど・・・離れられないけど、これ以上君を傷つけたくないから、苦しい。」
「中佐?」
 さらに体重をかけられて、慌ててリザは足を踏ん張った。
 酔っ払いはなおもぶつぶつと何か言っているが、呂律が回っていないせいか意味ある単語は聞こえない。
「中佐!とにかく歩いてください!」
「そばにいてくれ。」
「いるでしょ!」
「ずっとだ。どこにも行くな。」
 顔を覗き込むと、ロイの目は虚ろで今にも閉じそうだった。
 リザはロイの体を背中で支えて、引きずるようにして歩き出した。
「中佐!お願いですからちゃんと歩いて!」
「うん・・・眠い・・・」
「寝るならホテルで寝てください!重いです!」
「うん。少尉、すまないな。」
「もう謝らなくていいです!」
 謝られる度に胸の奥が疼く。
 彼を傷つけたのは私だ。
「ごめんなさい、中佐。」
 思っただけのつもりが、声にでていたらしい。
「ん?どうして君が謝るんだ?」
 酔っ払いのくせに、そう訊いた彼の声がとても優しくて。
 重くて、熱くて、苦しいのに、泣きたくなるほどそれが愛しい。
「・・・中佐?」
 呼びかけると、「ん?」と眠そうな声が返ってくる。
「そばにいたいです。」
 どうせ朝になったら何も覚えていないだろう。
 だから少しだけ、ほんのちょっとだけ本音を告げてみた。
「・・・ありがとう。」
 彼はそう呟いた。
 彼の腕が、少し力を込めてリザを抱きしめた。

片思い|Roy side

 少尉が。少尉は。少尉なら。
 少し呂律が怪しくなってきたあたりから、ロイの話は自分の副官のことばかりだった。
 客商売の長いマダムは最初のうちこそふんふんと聞き流していたが、さすがにそれも2時間を過ぎるとめんどくさくなってきた。
 すっかりできあがっている様子のロイは、マダムの相づちが適当でもまったく気づく様子はない。
 閉店時間が近いこともあり、マダムはロイを無視して片付けに入った。
「マダム!ロイさんつぶれてるよ。」
 従業員のマリーの声に振り向くと、さっきまで管を巻いていた養い息子がカウンターに突っ伏している。
 マダムは呆れたように鼻を鳴らした。
「こら!馬鹿息子!片付けの邪魔だよ!」
 ぼさぼさの黒頭をバシッと殴りつけると、「ヌアッ!」と間抜けな声を上げてロイは起き上がった。
「寝るんなら帰って寝な。」
「乱暴に起こすなよ。」
「邪魔なんだよ!」
「マダムひどい。少尉なら・・・」
 もごもごと何か呟きながら再び伏せそうになるロイを、マダムはもう一度殴りつけた。
「マダム、痛いよ。」
 そう言ってロイはふらふらと立ち上がった。
「トイレ、行ってくる。」
 手洗いから戻ってきたロイは幾分しっかりしてきたようだった。
 マダムの差し出したグラスを受け取り、冷たい水をぐっと一気に飲み干す。
「マダム、おかわり。」
 マダムは何も言わず水を注いだ。
 今度は口を湿らすように一口だけ水を飲み、ロイは息をついた。
「・・・好きな子がいるんだ。」
 独り言のように呟いたロイの言葉に、マダムは内心驚いた。
 けれども表情には出さず、ただ「ふうん」と頷くだけにとどめた。
「えー、ロイさん。好きな子いるの?」
 耳ざとく聞きつけた女の子たちが、わいわいとロイを取り囲んだ。
「どんな子?」
「んー・・・、真面目で、厳しくて、几帳面で、いつも一生懸命だ。」
「そういう子が好みなの?」
「なんか意外。ロイさんぽくない。」
 マダムは軽く舌打ちをすると、手を払った。
「ほら!あんたたち!閉店だよ!片付け片付け!」
「はーい。」
 女の子を散らして、マダムはロイに向き直った。
「それで?」
 マダムが促すと、ロイはぼんやりした目でマダムを見た。
「なんて子だい?」
「名前?」
「そうだよ。」
「リ・・・いや、えーと・・・。・・・エ、エリザベス?」
 疚しそうに目をそらして、ロイはそう答えた。
「今度連れといで。」
 マダムがそう言うと、ロイは首を振った。
「俺の片思いだよ。」
「ガキみたいなこと言うじゃないか。口説くのも口説かれるのもお手のものだと思ったけど。」
「俺もそう思ってたんだけどね。どうも本命には弱いみたいだ。」
 ロイは苦笑して、また一口水を含んだ。
「これ以上嫌われたくないしな。」
「これ以上ってことは既にやらかしてんだね。」
「・・・そりゃもうめいっぱい。」
 ロイは片手で頭を抱えた。
「たくさん傷つけた。心も体も両方だ。それでも手探りで頑張って、やっと最近笑ってくれるようになったのに。俺が告白なんかしたらきっとまた傷つける。泣かしたくないんだ、これ以上。」
「バカだね、まったく。」
 マダムは鼻で笑った。
「10代の子どもみたいなこと言ってんじゃないよ。かっこつけて取り繕って言い訳して。情けないったらありゃしない。覚悟がないなら身を引きな。お互い見えないように距離をとるのが1番だよ。」
「そんなことできるわけないだろ!」
「だったら腹括るしかないじゃないか。告白はできない、身も引けないなんてワガママなクソガキが駄々こねてるようにしか聞こえないよ。傷つくのも傷つけるのも怖いってんなら、本気の恋愛なんかやめちまいな。最初から適当に遊んで、1人で死ねばいいんだよ。」
「マダム・・・。キツいよ。俺、泣きそう。」
「そうかい?3割り増しで優しく励ましてるつもりだけどね。」
「どこがだよ。」
 ロイは深いため息をつくと、カウンターに突っ伏した。
 それを咎めようとしたマダムは、ロイが「リザ、ごめん」と呟いていることに気づき口を噤んだ。

シクラメン

 家へと向かう途中、商店街を通りかかるといつもより活気にあふれていた。
 何だろうと、覗いてみると、屋台やワゴンセールが見えた。
 さらに「大誓文払い」と書かれた大きな垂れ幕がかかっている。
 ああ、そんな季節か、とロイはわずかに目尻を下げた。

 小春日和のうららかな午後だった。
 日当たりのいいリビングで本を読みながらうとうとしていたロイは、いきなりソファから転げ落ちて仰天した。
「は?え?」
 訳もわからぬまま上を見上げていると、師匠の無表情な顔がぬっと覗き込んできた。
「せ、先生!」
 慌てて起き上がって正座する。
 ホークアイはロイをじろっと睨むと、チラリと時計を見た。
 ロイもつられて時計を見たが、まだようやく3時を回ったところだった。
「商店街に行ってこい。」
 そう言うとホークアイはくしゃくしゃになった5,000センズ札をロイの胸ポケットに入れた。
「小遣いだ。」
「小遣い?」
 かつて一度も出たことのない単語にロイはのけぞった。
 ホークアイは驚きのあまり硬直したロイを一瞥し、2階へと戻っていった。

 行けと言われただけではどうしていいのかもわからないが 、ロイは商店街へ向かった。
 大誓文払い、と大きな垂れ幕のかかった商店街は、いつもよりにぎやかだった。
 5,000センズには触れずとりあえず歩いていると、「マスタングさん!」と聞き慣れた声がした。
「リザ!」
 白い三角巾をつけ、エプロンをつけたリザがひらひらと手を振っている。
「今日はここでバイトなんですよ。」
「そうか。」
「4時までなのでもうすぐあがれますよ。」
「そうか。じゃあ一緒に・・・」
 そこまで口にしてようやく閃いた。
 迎えに行けという意味か!
 師匠のわかりにくい親心にため息が出そうになる。
 お店の好意で少し早めにあがったリザと、商店街を歩いた。
「なんか食べる?おごるよ。」
 ロイの提案に、リザは顔をしかめた。
「そんな無駄遣いしなくていいです。」
「いや、えっと・・・」
 師匠にもらった5,000センズがやけに重い。
「無駄遣いじゃない。こういうところで使うお金は厄を払って福を呼び込むんだ。」
 口からでまかせでそう力説すると、リザは少し笑った。
 牛串とフライドポテトをベンチに座って食べ、手を繋いでぶらぶらと歩いていると、リザが足を止めた。
「何?」
 リザの視線を追うと、そこは花屋のトラックセールだった。
 ちょうど今が時期なのか、色とりどりのシクラメンの鉢がいっぱいだった。
「シクラメン?好きなの?」
「え?いえ、好きっていうか・・・」
 リザは困ったような曖昧な笑みを浮かべた。
「そういえば今くらいの時期に、母がいつも買ってたな、と思って。」
「お母さんが?」
 ロイが繰り返すと、リザは小さく頷いた。
 どう言っていいのかわからず、ロイはしばらくリザの顔を見つめた。
 それが恥ずかしかったのか、リザは目をそらすとロイの手を引っ張った。
「・・・待って、リザ。」
「なんですか?」
「それは・・・いい思い出?それとも悲しい思い出?」
 自分でもどうしてそんな質問をしたのかわからない。
 リザも意外な質問だったらしく、驚いたように目を見開き、それから少し考えた。
「・・・懐かしい思い出、です。たぶん。」
 リザがそう言って微笑んだので、ロイも笑った。
「そうか。じゃあ1つ買おう。」
「え?だって・・・結構高いですよ。」
「大丈夫。」
 ロイは胸ポケットからくしゃくしゃの5,000センズを出すと、リザを促した。

「ただいま-」
 玄関を開けると、まず双子が、それからようやくよちよち歩き出した弟がロイを迎えた。
「おかえりー!」
「おかえりなさい!」
「あ!なんか持ってる!」
「おとさん!おみやげ?ケーキ?プリン?」
「果物?柿とか梨とか。」
「君たちはどうしてそう食べ物ばかりなんだ。」
 ロイは苦笑すると、奥から手を拭きながらリザが出てきた。
「おかえりなさい。」
「ただいま。」
「あ、おみやげ。なんですか?ロールケーキ?」
「・・・親子だな、まったく。」
 ロイはそう言って、手に提げていたビニル袋をリザに渡した。
 中を覗き込んで、リザは柔らかく目尻を下げた。
「シクラメンですね。」
「商店街で見つけたんだ。」
「懐かしい。」
 顔を見合わせて微笑み合う両親を見ながら双子は肩をすくめ、「おやつじゃないのかー」と弟を抱っこしてリビングに戻ってしまった。
「情緒のない子たちだ、まったく。」
「誰に似たんでしょうね。」
 リザはシクラメンの鉢を玄関に飾ると、ロイの腰に手を回してぎゅっと抱きしめた。
「ありがとうございます。」
「どういたしまして。来年も買ってくるよ。」
「来年は一緒に行きましょう。」
 そう言って顔をあげたリザの額に、ロイは軽く唇で触れた。


彼と歩く(中尉と大佐)

 あなたの声、あなたの呼吸、あなたの足音。
 それだけで満足していた。
 けれども繋がれた手をふりほどくことはできず。
 温かくて、心地よくて。
 何度か苦言は呈したけれども、その手を本気で拒むことはできなくて。
 あなたの手の温もりを、その力強さを、手放したくないと思うようになったのは、いつからだったろうか。

「少し歩きませんか?」
 私がそう提案すると、少し戸惑った様子を見せつつも彼は頷いた。
「珍しいな。」
 手を繋いで歩いていると、彼が言った。
「何がですか?」
 私が首を傾げると、彼は苦笑した。
「こういうふうに誘われるのが。」
「そうですか?」
「いつも口うるさく言うじゃないか。人に見られたらどうするんだ、って。」
「どうもしない、っていつもあなた言ってるじゃないですか。」
「そりゃあ私は君と手を繋ぐのが好きだからな。昔からずっとだ。」
「奇遇ですね。私も好きですよ。昔からずっとです。」
「意外な言葉だ。」
 私にしか見せない優しい笑顔を向けて、彼は微笑んだ。
 アルコールでほてった頬に、秋の夜風が心地よかった。
 特に何をしゃべるわけでもなく、互いの手の温もりを意識しながら歩いた。
「・・・たしかに私らしくないかもしれませんね。」
 そう言うと、彼は「ん?」と私の目を覗き込んだ。
「恥ずかしいんです。」
「何が?」
「手を繋ぐのが好きだとあなたに知られることが、です。」
 彼はきょとんと目を見開き、それから相好を崩した。
「笑わないでください。」
 空いた手で彼の肩を小突くと、彼は痛い痛いと大げさに逃げた。
「すまん。びっくりした。」
「何のことですか?」
「知られてない、と思っていたことにだよ。」
 私は一瞬絶句し、おもいっきり彼の足を踏もうとした。
 勘のいい彼は私の気配に気づいたのか、さっと足をよけた。
「バカにしてます?」
 私がにらむと、彼は肩をすくめた。
「してないよ。 かわいいな、と思ったんだ。私の素直な感想だ。君も素直になったらどうだ?」
「恥ずかしいから嫌です。」
「そんなに恥ずかしいことを考えているのか。」
「違います!バカですか!バカですよね!何考えてるんですか!」
「ん?私は何も言ってないぞ。言ってるのは君だろ?」
「バカ!」
 内心うろたえていることを知られないように、私は早足で歩き出した。
「おい。もう少しゆっくり歩こう。」
「知りません。」
「中尉!月がきれいだな!」
「曇ってますよ。月なんか見えません。」
「君ね、そこは『死んでもいい』と返すとこじゃないか。」
「は?なんですかその脈絡のないセリフは。」
 くだらない応酬を続けていると、あっという間に私のアパートメントについてしまった。
 いつものように、私の背中をアパートメントの壁に押し付けて、彼がそっと唇を寄せる。
 そのタイミングをはかって、くるりと体の位置を入れ替えた。
「中尉?」
 彼が戸惑ったように私を見下ろした。
 その黒曜の瞳を、私はじっと見つめた。
 あと何年、何回、こうして笑いながらふざけられるだろうか。
 いつか来るかもしれない終わりの予感に、身体の芯がかすかに震えた。
 不安を悟られないように、強く唇を押し付けた。

 離さないで。側にいて。優しくして。
 私を見て。
 私だけをずっと。

 素直な本音は表に出ることなく、ただ唇の中に飲み込まれた。
「・・・今なら。」
 熱い吐息がこぼれて、私は彼の胸に顔を押し付けた。
「今なら死んでもいい・・・かも。」

 今ここで。
 確かに存在するこの温もりの中でなら。

 声は小さく、くぐもっていたはずだが、彼には届いてしまったらしい。
「バカ者。」
 彼は低い声で呟き、私の耳たぶをかんだ。

彼女と歩く(少尉と中佐)

 君の声、君の呼吸、君の足音。
 すべてが心地よく耳に馴染む。
 かつての関係を忘れることはできないけど、新しい関係を築くと決めて生まれた君との距離、およそ1メートル。
 すぐに慣れると思い、実際すぐに慣れたけれども、時間が経つにつれて新しい感情に気づいてしまった。
 物足りない、もどかしい、苦しい。
 君に触れたいと。
 君の手の温もりを、その柔らかさまでも欲しいと思うようになったのは、いつからだったろうか。

 不摂生を怒られて、「上官の体調管理」という名目で夕飯を共にするようになった。
 けれども距離は変わらない。
 彼女の家まで徒歩5分。
 送る、と言って共に外に出ても、彼女は私の2歩後ろを歩く。
 気に入らない。
 ぴたりと足を止めると、前をちゃんと見ていなかったのか私の背中に彼女がぶつかった。
「なんでいきなり止まるんですか。」
「気に入らない。」
「は?」
 ポケットに手を入れたまま振り返って彼女を見下ろすと、彼女は怪訝な顔をしていた。
「今はプライベートだろ?」
「そうですね。」
「どうして君は後ろを歩くんだ。」
 私のいいがかりのような抗議に、彼女は呆れたようにため息をついた。
「プライベートだろうがそうでなかろうが私はあなたの部下です。」
「部下だろうがなんだろうが君は女だ。」
「それが何か?」
「仕事中は我慢する。だがプライベートの夜道で、女性である君が私の見えないところを歩くな。」
「夜道で人に背中を見せるのが気になりますか?」
 何を勘違いしているのか、彼女の声が沈んだので、私はイライラと髪をかいた。
「違う。君が見えないところにいるのが嫌なんだ。」
「見えなくったって後ろにいることくらい気配でわかるでしょう。」
「そういう問題じゃない。」
 私はポケットから手を出すと、一瞬ためらったが強引に彼女の手をつかんだ。
「何するんですか!」
 驚いたらしい彼女は手を引こうとしたが、私は手に力を込めてそれを阻んだ。
「離してください!」
「嫌だ。」
「誰かに見られたらどうするんですか!」
「気にしない!」
「気にしてください!」
「今は夜だ!軍の寮は司令部をはさんでうちと反対方向だし、君の家まで遠くないし、私が女と歩いてるからって誰が気にするんだ!」
「相手が私だと問題になります!」
「この暗がりで顔がわかるわけない!」
「知り合いならわかるかもしれません。」
「この状況で顔がわかる知り合いならなおさら気にしない。」
 私はぐいっと手を引っ張って歩き出した。
 引きずられるようにして、彼女が私の隣を歩く。
 往生際が悪いのか、それでも少し距離をとろうとするので強引に手を引いた。
 彼女の肩と、私の肩がかすかに触れた。
「なんでそんなに近づくんですか。」
 少しうつむいたまま、彼女は泣きそうな声でそう言った。
「迷子になったらどうするんだ。」
 わざと茶化すと、彼女はおもいっきり私の足を踏んだ。
「痛てっ!」
「子ども扱いしないでください!」
「子どもじゃないか!」
「違います!」
 鼻息荒くそう言うと、彼女は私の手を引いて大股に歩き出した。
「冗談だ。そんなに怒るな。」
「怒ってません。」
「もう少しゆっくり歩こう。」
「知りません。さっさと帰りますよ。」
 すっかりいつもの調子に戻った彼女のつむじを見ていると、不意に苦いものがこみ上げてきた。
 彼女が子どもじゃないことくらいわかっている。
 仕方ないじゃないか。
 そうでも言わないと手も繋げないくらい、私は臆病なんだ。
 この距離をいつか詰めることになるのか、それとも離してしまうのか。
 できれば前者であることを祈りつつ、私は彼女の手を握り直した。

彼と彼女の告白あれこれ

「プロポーズしようと思うんっすよ。」
 いつになく思い詰めた顔で家を訪ねてきたから何かと思えば、開口一番ハボックはそう言った。
「・・・いいんじゃないか。」
 他に言うべきセリフも思いつかず、ロイは至って普通に頷いた。
「それでですね、参考までに訊きたいんですけど。」
 ハボックは出されたウィスキーをグイッと飲むと、いささか据わった目つきでロイに詰め寄った。
「大将はなんつって大尉にプロポーズしたんですか?」
 ・・・ああ、うん。そんな話だと思った。
 ロイは自分もウィスキーをチビチビとなめながら、目をそらした。
「大将?」
 訝しげに言い募るハボックに、ロイは肩をすくめた。
「・・・2つあるがどっちが聞きたい?」
「・・・なんで2回もプロポーズしてんですか?」
「子どもができたときと同棲をする前とで2回プロポーズしたんだ。」
「ああ、なるほど。じゃ両方。えーと、子どもができたときはなんつったんですか?」
「・・・結婚も仕事も早急になんとかする。みくびるな。」
「それ、プロポーズ?」
 首を傾げたハボックにため息が出た。
「だから状況が許さなくて籍が入れられなかっただけで、もっとずっと前にちゃんとプロポーズしてたんだ!」
「じゃあそのちゃんとしたプロポーズはなんつったんですか?」
 いささか歯切れの悪い様子のロイに、ハボックは眉を寄せて、キッチンにいたリザに声をかけた。
「大尉!プロポーズ覚えてます?」
「どのプロポーズ?」
 チーズや生ハムなどの簡単なおつまみを持ってきたリザは、ロイの横に座って自分用に入れた梅酒を飲んだ。
「どの、って。大将のプロポーズっすよ。」
「結婚式で言われたやつ?それとも妊娠がわかったときのやつ?同棲するときに言われたやつ?」
「あ、最後の。同棲んときのやつです。」
 そう言ってハボックはニヤリと笑った。
「なんか大将の申告より1個多いっすね、プロポーズ。」
「結婚式の時はもう結婚してた。」
「大尉。結婚式のやつも教えてください。」
「これはね、一番ロマンチックだったわよ。『君のご両親と、子どもたちと、君自身に対して、生涯君を護り、愛し、幸せにすることを誓う。』」
「気障っすね!大将らしいっす!」
「黙れハボック!誓いの言葉だぞ!一生懸命考えたんだ!」
 ニヤニヤ笑うハボックの頭をバシッと叩いて、ロイは腕を組んだ。
「それで?最初のプロポーズは?」
 悪のりして急かすハボックを軽く制して、リザはチラリとロイを見た。
「なんかいっぱい言われましたよね。」
「君がすぐにOKしてくれないからだろ。」
「『私は君と一緒じゃなきゃ嫌なんだ』、でしたっけ。」
「なんでそこを引っこ抜くんだ!」
「あ、ごめんなさい。『君といると幸せなんだ。君は私の幸せより大事なものがあるのか?』の方ですか?」
「なんっすか、その傲慢なプロポーズは。」
 呆れたようなハボックの言葉に、リザはクスクスと笑い、ロイは憮然とした顔でリザを睨んだ。
「ちゃんと指輪を贈って『結婚しよう』って言ったじゃないか。なんでそんな意地悪ばっかり言うんだ。」
「アルフォンス君に先を越されて焦ったんですよね。」
「あんな小僧の戯れ言なんかに焦ったりしない!」
 ムキになって反論するロイを尻目に、リザはハボックに向き直った。
「アルフォンス君、かっこよかったのよ。真面目な顔でちゃんと目を見つめて『僕と結婚しよう』って。」
「・・・マジっすか。」
「あれ、天性かしら。ハボック少尉も参考にするならああいうのがいいわよ。ああいうの、女は弱いわよ。」
「・・・俺、中尉っす。」
「リザ。なんだか聞き捨てならんのだが、私のプロポーズよりアルフォンスの方がいいっていうのか。」
 ロイがむくれてそう抗議すると、リザは目を細めてロイの髪をなでた。
「そんなこと言ってませんよ。バカですね。妬いてるんですか?」
「好きな女が他の男を褒めてたら不機嫌になるだろう、普通。」
「心配しなくてもあなたが1番ですよ。プロポーズの時に言ったじゃないですか。」
「何を?」
「私があなたを幸せにします、って。」
 得意げにそう言い切ったリザの言葉に、ロイはぽかんと口をあけ、ハボックは肩をすくめた。
「・・・あれっすね。大将んとこは逆プロポーズだったんすね。」
「違う!」
「相変わらず男前っすね、大尉。見習います。」

甘えたい彼女(中尉と大佐)

 最近疲れている。
 爆破テロ予告で非番がつぶれたり、違法な武器密売組織の裏取引を押さえるのに3週間も費やしたり、その間にたまった日常業務の書類あれこれを捌いたりで、気がつくと1ヶ月以上もまともな休みをとっていなかった。
 しかも疲れすぎて体がハイになっているのか、布団に潜り込んでも寝付きが悪く眠りも浅い。
 おそらく自律神経が乱れているのだろう。
 こういう時は愛犬か恋人を抱きしめていれば15分くらいで落ち着くのだが、愛犬は躾教室の合宿に行っていてまだ帰ってこない。
 恋人に「抱きしめて欲しい」と強請るのは未だに恥ずかしい。
 仕方なく枕を恋人の代わりに抱きしめて寝ていたのだが、やっぱり疲れは取れない。
「疲れてるみたいだな。」
 勘のいい恋人はそう言った。
「今日は外で夕飯を食べよう。」
 しばらく食事を共にしていなかったから彼の好物を作ってあげたかったが、確かに就業後に家事をするのは億劫なくらい私は疲れていた。
 彼の言葉に甘えて、馴染みのバルで簡単に食事をとった。
 翌日は珍しく非番の揃った休みだった。
 時間はたっぷりあるのだから、まずは交代でシャワーを浴びて、甘い香りのお茶を淹れて、おいしいクッキーでもつまんで、それからゆっくり甘やかしてもらえばよい。
 そう思っていた。・・・彼の家の玄関をくぐるまでは。
 ドアを閉めて振り返ると、彼の背中が目に入った。
 その瞬間、抱きつきたい衝動がこみ上げてきた。
 けれども衝動に任せて抱きつくには理性が捨てきれず、伸ばした手で彼の背中に触れた。
「ん?どうした?」
「なんでもないです。靴を脱ぐのによろけそうになっただけです。」
 私は無表情のままそう答えた。

 触れてこようとする彼をとどめてシャワーに押し込んでおきながら、 私は途方に暮れていた。
 正直に言うと大佐に触れたくて仕方ない。
 抱きしめて、彼の匂いをかいで、包まれて、たくましい胸板に耳を押しつけて、心臓の音を聞いていたい。
 しかし誤解されたくないのだが、そこから先はまだ求めていないのだ。
 今日は泊まる予定だし、肌を合わせて抱き合うのは寝支度を全部整えてからでよい。
 ただその前に抱きしめて欲しいだけなのである。
 けれども最近忙しくてスキンシップが不足していたのはお互い様で、おそらくは欲求不満であるだろう彼にそんな申し出をすれば、喜び勇んで好き勝手にされそうな気がしてちょっと怖い。
 やっぱりベッドに入るまで我慢しようか。
 1月以上も我慢したのだ。あと数時間我慢するくらい、素数を数えていれば何とかなる。
 丁寧にミルクティを淹れて、マシュマロとシナモンを加えた。
 甘い匂いに心が落ち着く。
 彼がシャワーを出る気配がした。
 バスルームにつながるドアは閉まっているし、廊下も隔てているから聞こえるはずはないのだが、こういう時の勘はほぼ100%に近い割合で当たる。
 濡れた体を拭い、同じタオルで乱暴に髪を拭き、下着を身につけて、鼻歌を歌いながらこっちに向かう。
 リビングのドアが開くまであと数秒。
「いい匂いがするな。」
「ミルクティです。飲みますか?」
「飲む。」
 彼のミルクティにもマシュマロとシナモンを入れて、はい、っと手渡した。
「うん、いい匂いだ。おいしい。」
 ご満悦の彼と目を合わさないように、ソファではなくラグに座る。
「ん?なんでそっちに座るんだ。」
「これを飲んだらシャワー入ってきます。」
「うん。そうすればいいけど、こっちきたら?」
「気にしないでください。」
 今近づいたら歯止めがきかなくなりそうだ。
 それなのに彼はニヤリと笑って、わざわざソファの下のラグに座り直した。
「そっち行っていい?」
「だめです。こないで。」
「久しぶりなのに冷たいな。」
「大佐は紅茶の邪魔をするからだめです。」
「隣で飲めばいいじゃないか。」
「いいからそこでおとなしく飲んでください。おいしいでしょ?」
「君の紅茶の方がおいしそうだな。」
「同じものですよ!」
 じりじりとにじり寄ってくる大佐から距離をとろうとすると、自然とテーブルから離れてしまった。
「どこ行くんだ?紅茶飲むんだろ?」
「なんで近づくんですか?」
「そっちこそなんで離れるんだ?」
「・・・もういいです。シャワー浴びてきます。」
 立ち上がって逃げようとしたが、それより早く腕をつかまれてしまった。
 ぐいっ、と引き寄せられ背中から抱き込まれた。
 湿り気を帯びた髪が、私の頬に触れる。
 かすかに香る石鹸の匂いと、湯上がりでほかほかと温かい体が心地よかった。
 そんなふうに包まれてしまえば、崖っぷちだった理性の箍は呆気なく外れ、私は彼にもたれるようにして身を預けた。
 くっくっく、と彼が含み笑いをする振動を背中に感じ、私は口を尖らせた。
「なんで笑うんですか。」
「いつ言い出すかと思って待ってたが、君があまりに頑固なんでね。」
「なんのことです?」
「抱きしめて欲しいならそう言えばいいのに。」
 知られていたのか。
 彼の言葉に、顔が火照った。
「・・・いつから?」
「1週間くらいかな。」
「気づいてたのに無視してたんですか?」
 多少責める口調になったのは仕方ないと思う。
「たまには君からお願いされたくてね。」
「悪趣味です。言い出せないことくらいわかってるくせに。」
「照れ屋で頑固で意地っ張りだからな。」
 彼は私を背中から抱きしめたまま、ずるずるとテーブルの近くまで戻った。
「ほら。紅茶飲み終わるまでこうしとくよ。」
「・・・飲みにくいです。」
「嬉しいくせに。」
 彼のしたり顔が実にむかつく。
 内心満たされてしまったことはおくびにも出さず、私は黙って紅茶を飲んだ。

甘えたい彼女(少尉と中佐)

 もともと感情の起伏が見られないホークアイ少尉だが、疲れがたまるとそれはさらに顕著になるらしい。
 今日の彼女は非常にとんがっている。
 目つき、顔つき、態度、声、歩き方に至るまで、完璧に感情と気配を消している。
 しかも本人は無自覚であるらしい。
 おまけにこういう時の彼女は、半径5メートル以内のすべての気配に敏感だった。
 タバコ休憩に行こうとしたハボックが立ち上がる前に「ついでにコーヒー淹れてきて」と命じ、声をかけるよりも早く私の気配に気づいて書類を攫い、あげくには電話の鳴る音よりも一瞬早く受話器に手を伸ばしていた。
 これはもはや冴え渡っているというレベルではない。
 超能力の域だ。
 しかし呑気に感心している場合ではない。
 いつにも増して仕事のキレがいいから誤解されがちなのだが、これはブレーキが壊れた状態である。
 交感神経活性状態なのか、ノルアドレナリン過剰分泌状態なのか、あるいはその両方なのかは不明だが、彼女がストレス極限状態にあることは間違いない。
 1日でも休みが取れればいいのだが、あいにく明日から1週間、私を貶めることに執念を燃やしているセントラルの将校がやってくることになっていた。
 彼女が疲労で倒れる前に、対策を講じねばならない。

「失礼します、中佐。お呼びと伺いましたが。」
「ああ、少尉。ドアを閉めて鍵をかけたまえ。」
 執務室に呼びつけられた少尉は不服そうだった。
「4時までに経理に提出しなければならない領収書があるんですが。」
「心配するな。私の用事は15分で終わる。」
 私は立ち上がると少尉の近くに歩み寄った。
 軍服の上着を脱いで、無造作にソファに引っかける。
「君も脱ぎたまえ。」
「セクハラですか?」
「そんなわけあるか。いいからとにかく上着を脱ぎたまえよ。上官命令。」
 胡乱な目でじりじりと後ずさる少尉の退路を防ぐように、私はドアの前に立った。
「セクハラですよね?」
 彼女は私を睨みながら繰り返した。
「違うと言ってるだろう。ストレス解消だ。」
「そういうことは軍の外の女性にお願いしたらどうですか?」
「だから違うって。私のストレスじゃない。君のストレスだ。」
 憮然としてそう告げると、彼女は訝しげに目を眇めた。
 私はガシガシと頭をかき、軽く息をついて彼女を抱きしめた。
 軍服の上着がごつくて邪魔だが仕方ない。
 当然ながら彼女は驚いたようで、体の間に腕をつっぱって距離をとろうとした。
「ちょっと!いきなり何をするんですか!」
「いいから力を抜け。ゆっくりでいいから息吐いて!」
「は?」
「だから深呼吸!ほら、フー・・・って。」
 いささか混乱しながらも性的暴行にはあたらないと判断したのか、少尉は力を抜いた。
「もう1回深呼吸。ゆっくり息吐いて。」
 抱き込んでいるので顔は見えないが、少尉は言われたとおり息を吐いた。
「・・・どんな感じだ?」
「汗臭いですね。加齢臭ですか?」
「な!私はまだ20代前半だぞ!そんなわけあるか!」
「冗談です。なんか落ち着きます。」
 どうやら強ばりのとれたらしい少尉のしなやかな体が、私の体のラインに沿って馴染む。
 両手をどうしていいのかわからないらしく、私のシャツをつかんだまま背中に回そうとはしない。
「君、疲れてるだろう。」
 そう言って私は彼女の頭にあごをのせた。
「電池が切れそうになってるぞ。」
「この部屋ですか?蛍光灯かえたほうがいいですか?」
「蛍光灯の話じゃない!君のことだ!」
 私はため息をついて、もう少し強く彼女を抱き寄せた。
 そのままよいしょ、っと持ち上げて、彼女をソファのひじかけに座らせ、もう1度抱き直す。
「15分こうしとこう。充電が必要だ。」
「過保護ですね。まさか職員の女性全部にこうしてるんですか?」
「そんなわけないだろう。君だけだ。」
「どうして私だけなんですか?」
 深い意味のある質問ではなかったのだろうが、私は答えに窮した。
 君の様子が気になるのも、君の体調を気遣うのも、なんだかんだ理由をつけて君に触れたいのも、全部全部君が好きだからだ。
 しかしそれを告げるには、君も私も枷やしがらみやその他諸々が多すぎてまだ痛い。
「・・・大事な副官だからな。」
 卑怯だとわかっていながら、結局私は上下関係を言い訳にした。

弟の上司

「ちゅーっす。アル!迎えに来たぞー・・・って、何やってんだよ。」
 中央司令部大総統府執務室勤務の弟が資料に埋もれて四苦八苦しているのを見て、エドワードは目を丸くした。
「あら、エドワード君。」
 金髪美人の弟の上司が、エドワードににっこり微笑みかける。
「ヴァンも大きくなったわね。」
 そう言ってリザは、エドワードの息子のほっぺをつついた。
「今日はどうしたの?」
「リゼンプールから友だちが遊びに来るっつってさ、ウィンリィがいねーんだ。」
 エドワードは肩をすくめた。
「で、アルフォンスと飯を食う約束なんだけど。」
「子連れで?」
「総菜と、あとは適当に酒でも買ってうちで飲むんだ。」
 にしし・・・、とエドワードは歯をだして笑った。
「久しぶりに夜更かしだ。」
「ヴァンのご飯は大丈夫?」
「離乳食、冷凍してあるから、それ解凍すればいいってウィンリィが言ってた。」
「じゃあ大丈夫ね。」
「大丈夫じゃなさそうなのはアルだな。」
 エドワードはチラリと弟に目を向けた。
「あれ、何やってんの?」
「レポートよ。議会制民主主義における政治家と国民の理想的相関関係をあげ、それを築き上げるために必要な法律はどういったものか述べよ。それを立法することによって得られるメリットデメリットをあげ、デメリットを抑制する手段を述べよ。」
「・・・それ、仕事?」
「アルフォンス君みたいな官僚候補生は強制参加の勉強会があってね、その宿題。」
「へー、大変だな。」
「エドワード君。ヴァン連れてここで待つのしんどいでしょ?今日、うちの人早上がりだから家にいるわよ。そっちで待ってたら?」
「そんなに時間かかる?」
「昨日も一昨日も夜中まで頑張ってたみたいなのよね。業務終了後から手をつけなきゃいけないから進まないみたい。」
 リザはエドワードをソファに座らせて、アルフォンスの進捗状況を見に行った。
 アルフォンスの肩を叩き、二言三言交わして、リザはエドワードのところへ戻ってきた。
「キリのいいとこまでやるから1時間くらいだって。うちにいらっしゃい。」
「じゃあそうしようかな。大尉はまだ帰らないの?」
「私もあがるわ。着替えてくるからロビーで待ってて。」
「了解。」

 結局アルフォンスがマスタング家にきた時点で8時を過ぎていたため、エルリック兄弟はマスタング家で夕飯を食べた。
 お風呂も離乳食もすむとヴァンは眠たくなってしまったのか、慣れない環境に多少ぐずりながらもアルフォンスが帰ってくる前に眠ってしまった。
 明るいところでは寝にくいだろうと、以前子どもたちが使っていたロッキングチェアの埃をふき、子ども部屋に置いてそこにヴァンを寝かせた。
 双子も9時過ぎにはベッドに入り、夫婦とエルリック兄弟はリビングのラグに座ってワインを飲み直すことにした。
「・・・っていうか、おっさんさ。」
 トイレから戻ってきたロイが座った場所に気づいて、エドワードは顔をしかめた。
「誰がおっさんだ。」
「俺よりおっさんつったらあんたしかいねーだろうが!」
「大きな声を出すな、鋼の。子どもたちが起きるだろうが。」
 つばを飛ばしながら指をつきつけてくるエドワードを、ロイはたしなめた。
「なんで俺が怒られるんだよ。おかしいのはあんただろ。」
「何がだ。」
 ロイはほどよくアルコールが回ってるらしく、目の周りを真っ赤にしながらさらにワインに口をつけた。
 エドワードは軽い頭痛を感じて、こめかみに指を当てた。
「つうかさ、さっきはそっちに座ってたろ?なんでトイレ行って戻ってきたらそこになるんだよ。」
「ん?ちょっとリザが不足してるんだ。」
「いや、意味わかんね-。アル!なんとか言ってやれ!」
「え?僕?いや、だっていつものことだし。」
「いつもかよ!ねえ、大尉。それ、ありなの?」
 リザを後ろから抱きしめるように座り、その肩にあごをのせてへらへらしているロイを見ながらエドワードがそう訊くと、リザは困ったようにため息をついた。。
「なんか今さらね。言っても無駄だし。・・・ってどこ触ってるんですか。」
「太もも。」
 ペシンと叩かれてもなお懲りず、ロイはリザの足をなでまわしている。
「君の足は最高だ。癒やしだ。この柔らかさ、肌の張り、適度な筋肉。リザ。私は幸せだ。」
「バカですか。変態ですか。くすぐったいです。おやめください。」
 リザが首をひねってロイを睨もうとすると、その隙を逃さずロイはリザに軽く口づけた。
「何するんですか!」
 リザは真っ赤になって、ロイの顔をぐいっと押しやった。
「人前ではやめてください!って言ってるでしょ!」
「私は気にしない。」
 ロイは飄々とそうのたまった。
「気にしろよ!」
 エドワードは呆れたように言った。
「気にしてください!」
 リザはまだ頬を赤らめたまま、強く抗議した。
「気にしないよな、アルフォンス?」
 ロイがそう振ると、アルフォンスは兄とリザを交互に見て肩をすくめた。
「僕に訊かないでよ。うーん、キスはなし?スキンシップはあり?かな。」
「聞いたか、リザ。スキンシップはありだ。」
「限度があります!」
「程度をわきまえろよな!」


僕の上司

「アルフォンス君!」
「はい!」
 大尉の叱責にはもう反射的に体が動く。
「なんですか?」
「請求書。源泉徴収額が違うわ。」
「え?」
「100万超えたら計算式が変わるのよ。100万未満は10.21パーセントを掛けるだけでいいけど、100万超えたら請求額から100万引いて、それから10.21パーセントを掛けて最後に10万2100センズたすの。はい、やりなおし。」
「はい、すみません。」
「それと先週の研修の報告書がまだ出てないわ。チェックするから早めにね。あと東方司令部から教育センターと医療センターの来年度予算案が届くはずだから、去年の予算書と比較して金額違うところをピックアップしてから持ってきて。」
「わかりました。」
「あと、これなんだけど。」
「なんですか、これ。」
「昨日の軍政分離法案委員会の議事録。タイピングして清書して。」
「あの・・・締め切りいつですか?」
「請求書は大至急。予算案は届き次第すぐに。議事録は一両日中。報告書は今週中ね。」

「おまえも物好きだよな、ほんと。」
 研修先の東方司令部にて、ハボックはアルフォンスに酒を勧めながらしみじみと言った。
「何が?」
 アルフォンスが首を傾げると、ハボックは苦笑を浮かべた。
「わざわざ政治をやるために軍に入るとかさ。大学行けばいいだろ。頭いいんだからよ。」
「大尉にもそう言われたよ。」
 アルフォンスは口を尖らせた。
「ああ。大尉ならそう言うだろうな。」
 ハボックは頷いた。
「でも大将はやってみろ、って。」
 そう言ってアルフォンスは破顔した。
「実践でしか得られないものもあるから、って。」
「あの人らしいな。」
 ハボックはサラミを口に放り込んで肩をすくめた。
「で?実際どうよ。大尉の下についてみて。」
「鬼だよ、あの人。イズミ先生が優しく見えてくるくらい。」
 大げさに顔をしかめたアルフォンスに、ハボックは「そうだろうな」と頷いた。
「でも仕事離れたら優しいんだよね。」
 その言葉に、ハボックは「ん?」と訊き返した。
「寮の食堂、閉まるのが早くていつも間に合わないんだ。そしたら大尉、いつもご飯食べさせてくれるんだよね。それがすごくおいしいんだよ。」
「おい、アルフォンス。おまえ、大将んちで飯食ってんの?」
「食べてるよ。」
「大将、嫌な顔しねえ?」
「そんな感じはしないよ。あ、でも僕がいるときは双子の寝かしつけはおまえがやれ、って言われるんだ。まあ、かわいいからいいんだけどさ。あの子たち、寝付きいいし。で、双子寝かしつけてリビングに戻ったら、いつも大尉が大将のこと膝枕しててね、で、大将が『お疲れ。じゃあ気をつけて帰れよ』って。」
「めっちゃ追い出されてんじゃねーか。」
「でも大尉は優しいから、『コーヒー淹れるから飲んで行きなさい』って言ってくれるんだ。そしたら大将が『君はアルフォンスに甘すぎる』って文句言って、大尉が『あなたは冷たすぎます』って言い返して。それ、ずっと膝枕したまんまなんだよ。なんていうか、どっからつっこめばいいのかな。」
「見ないふりしてやれよ。」
 その光景がたやすく想像できて、ハボックは口元を緩めた。
「俺もよく知らねーけどさ、ずっと隠して付き合ってたんだろ?公然といちゃいちゃできて嬉しくてしょうがねーんだよ。特に大将な。まして家で甘えるくらいありだろ?家族なんだから。」
「大尉も嬉しそうなんだよ。仕事の時と大違い。大将の髪、指に巻き付けて引っ張って遊んだりしててさ。あんなことするんだ!みたいな。」
「そんなことしてんのか?おまえの前で?」
 さすがに人前で素直に甘えるような女には見えないので、ハボックは怪訝な顔になったが、アルフォンスは頷いた。
「あれって普通なのかな。僕は物心ついたときにはもう父さんいなかったからさ。よくわかんないんだよね。」
「うちの親だってどっちかっていうとよそよそしかったぞ。親父は無口だし、お袋はうるせーし。」
「こないだだって洗い物してる大尉の背中に大将がくっついててさ。『何してるの?』って訊いたら『充電』とかって。」
「・・・それ、大尉、何も言わねーのか?」
「邪魔です、暑いです、重いです、あっちいってください、・・・って棒読みで言ってた。」
「棒読みか。」
「本気じゃないのバレバレだよね。大将もわかってるからさ、大尉の腰にしっかり手回して、鼻先で大尉の首つついたりしていたずらしてんだよ。それで洗い物終わった大尉にべしって頭叩かれるまでがお約束みたい。最初は目のやり場に困っちゃった。もう慣れたけど。」
「・・・まあ、外でやってりゃバカップル以外のなにもんでもねーけど、家ん中だしな。」
「ああいうの見てると結婚っていいな、って気になるよね。ハボック中尉は結婚しないの?」
 まったく悪気のない様子の、無邪気なアルフォンスの質問にため息が出た。
「うるせーな。空気読め。」


彼女とデート

 ザッ、と勢いよくカーテンが開けられ、東向きの窓から容赦なく朝の陽光が降り注ぐ。
 眩しいな、と思いながらごそごそと頭まで布団に潜ろうとすると、その布団を引っぱがされた。
「う・・・、何?何だ?」
「朝です。早く起きてください。」
 昨日褥を共にしたはずの恋人が、その名残を欠片も見せることなく、完璧に支度を調えていることに、寝起きでぼんやりしながらもロイは気づいた。
 一方ロイはというと昨夜の名残を残したまま(ようするに素っ裸のまま)、おまけに自身の朝の生理現象にも気づいて悲鳴をあげた。
「中尉!布団!布団返してくれ!」
「早く起きてくださいよ。」
「わかった!向こう行ってて!」
 涙目で布団を取り返し、何とかリザを部屋から追い出した。
 下着だけ身につけて部屋を出ると、リザは忙しく動き回っていた。
 時計を見るとまだ5時40分だった。
「まだ6時前じゃないか。」
「6時には出ますからね。」
「そんなに早くどこ行くんだ?」
「美術館に行きたいんです。」
 ロイはテーブルに用意してあったミネストローネをちびちびと食べながら、洗濯物を干し、お弁当を包み、コーヒーを魔法瓶に入れるリザを眺めていた。
「君、何時に起きたんだ?」
「4時過ぎくらいです。」
「早起きだな。・・・昨日仲良くしたのに。」
 通りすがりに頭をはたかれて、ロイは飲みかけのコーヒーをふきそうになった。
「さっさとシャワー浴びてきてください。」
「はいはい。ごちそうさま。おいしかったよ。」
 急かされて身支度を整え、なんとか6時5分に家を出た。
 アパートメントの前に見慣れない四駆が止まっている。
 躊躇する様子もなくリザがその車に近づいたので、ロイは首を傾げた。
「その車、どうしたんだ?」
「さっき借りてきました。レンタカーです。」
 車に乗りこみながら、リザは促した。
「さ、乗ってください。」

 舗装こそされているが、道はどんどん細くなっていく。
 家を出て2時間半。途中2回ほど休憩したが、特に疲れた様子もなく、リザはご機嫌で山道を走らせていた。
 最初のうちこそのどかな田園風景や、西へ向かう電車と併走するドライブにロイも楽しんでいたものの、すれ違う車もほとんどなくなったあたりからだんだん不安になってきた。
「中尉、どこまで行くんだ?」
「美術館ですよ。」
「道、あってる?なんかすごい山の中だけど。」
「大げさですね。」
「言っておくが私は鹿もイノシシも撃てないぞ。」
「まだ時期じゃありませんよ。解禁されたら一緒に撃ちに行きますか?」
「無理です。」
「あ、そこ看板出てますね。あと20キロですよ。」
「看板?あったか、そんなの?」
 そこから10分ほど車で走ると、突然視界が開けた。
「おお!絶景だな。」
「もう着きますよ。」
 さらに5分ほど走って、ようやく白い建物が見えた。

「なんだ!これ!」
 声が反響するほど高い天井には、驚くほど精細な天井画がいっぱいに描かれていた。
「噂には聞いてましたけど壮観ですね。」
 ベンチに座って天井を眺めていたリザが、ほぉっと息をこぼした。
「すごいな。」
「この美術館、展示品が1000点以上もあるらしいんですよ。どれも名画ばっかり。」
「1000?そんなことが可能なのか?」
「全部レプリカです。でもすごいらしいんですよ、本当に。」
 ずっと来たかったんです。
 リザはそう言って、私の手を引いた。
 全5フロアもある美術館は、立ち止まらずに鑑賞しても丸1日はかかりそうだった。
 美術品に関してはあまり明るくない私でも知っているような絵が、いくつも展示されている。
 リザはずっと私の手を引いて、やっぱり古代はわかりにくいだの、宗教画は同じモチーフの絵が多いだのとしゃべり続けていた。
「この美術館にはヒマワリが2枚あるんですよ。」
「それはすごいことなのか?」
「去年『幻のひまわり』って映画やってたじゃないですか。その幻の1枚も展示されてるんです。それからここにはレミーの落ち穂拾いもあるんですよ。私、あの絵がすごく好きなんです。」
 屋上庭園のベンチに座って、リザの持ってきたサンドイッチを食べた。
 ロイの好きなBLTサンドと卵チキンサンドだ。
「いいお天気で気持ちいいですね。」
「そうだな。」
「あ、今年の冬なんですけど西口のシティホールでセイジ・ウィステリアの影絵展があるんですよ。行きませんか?」
「知らない名前だな。誰だ?」
「有名な影絵作家です。うちにカレンダーあるでしょ。あれですよ。」
「玄関にかかってるやつ?」
「そうです。」
「絵が好きだなんて知らなかったよ。」
 ロイがそう言うと、リザはコーヒーを持ったまま微笑した。
「趣味は偏ってますけどね。展示会とか行き始めたのがイーストシティに出てきてからですから、あなたが知らなくてもしょうがないですよ。」
「他は?どんなことが好き?」
「こんなふうに公園とかでお弁当食べたり、お散歩したりすることです。」
 リザはサンドイッチを頬張りながら言った。
「田舎育ちなので自然の中が落ち着くんですよ。」
「なるほどな。」
「夕飯のお店も予約してますからね。8時にしましたからもうちょっとゆっくりできますよ。」
「ずいぶん遅い時間にしたんだな。」
「帰るのも車で3時間ですから。」
「そういえばそうだった。どこを予約したんだ?」
「駅前の麒麟ていうバルです。タパスがいっぱいあっておいしいんですよ。」
「知ってる。カクテルの種類も多いしな。」
「私はサングリアが楽しみです。」
 リザはにこにこしていて、本当に楽しそうだった。
 普段職場で見ている顔とも、この前ショッピングモールを連れ回したときとも違う。
 そういえば子どもの頃は時々こんな顔をしていたな、と思ってロイは少し考え込んだ。
 風が吹いて、ザーッと木々の葉が揺れた。
 ちらりとそちらを向いたリザの横顔を見てふと思い出した。
 そうか。バイトを終えたリザを迎えに行って一緒に帰るとき、彼女はいつもこんな顔をしていた。
 大人になって変わった彼女と、大人になっても変わらない彼女。
 その両方を見つけて、ロイは口元を緩めた。

彼とデート

 ドアベルが鳴った。
 時計を見ると約束の時間を5分過ぎていた。
 女性を迎えに行くときは少し遅れていくものだ、とハボック少尉に講釈をつけているのを耳にしたことがあるから、これは彼の時間通りなのだろう。
 約束の15分前には支度を調えていたリザは、疑うこともなくドアを開けた。
 その瞬間、目に入ったのは恋人の笑みではなく、色とりどりの花束だった。
「おはよう、中尉。これはプレゼントだ。」
「・・・ありがとうございます。」
 これから出かけるのに、とか、うちには花瓶がないことを知ってるくせにといった言葉を飲み込んで、リザは笑みを浮かべた。
「もう少しお待ちいただけますか?」
「もちろんだ。」
 リザは花束を受け取って、バスルームと隣り合う脱衣所に入った。
 ぐるりと見回して花瓶の代わりになりそうなものを探したが、掃除用のバケツくらいしかない。
 バケツに水を入れ、花束の包装を引っぱがした。
 花束にはリボンが巻かれ、セロファンがテープで留められ、包装紙もテープで留められ、さらにその下はアルミで覆われ、切り口は濡れたシートで保湿され、さらに茎がゴムで巻かれていた。
 たかが花にこんなに厚着させねばならないのか。
 少々イライラしながらもようやく花を裸に剥き、リザはそれをバケツに放り込んだ。
 ふう、と一息ついて、大佐を玄関に置き去りにしていることを思いだした。
 リザは鏡を見て、少し髪を整えた。
「お待たせしました、大佐。」
「女性の支度は時間がかかるからな。」
 訳知り顔で頷く彼の頭を、ひっぱたきたい衝動に駆られた。

 最近できたばかりだという郊外のショッピングモールは、その話題性も手伝ってか大勢の人でにぎわっていた。
 リザも買い物は嫌いではないが、男連れだと意外に楽しめないということを今日初めて知った。
「中尉!これだ!このスカートはどうだ?」
「こんな短いスカートをどこに履いていくんですか?」
「・・・通勤着?」
「却下です。」
「中尉!あっちのショップとかどうだ?かわいくないか?」
「あれは10代の子向けのお店ですよ。あんな派手な服は着れません。あ、私向こうのお店見てきますね。」
「・・・中尉、まだか?まだ悩んでるのか?」
「いいからちょっと静かにしてください。」
「両方買えばいいじゃないか。それくらい出すよ。」
「そういう問題じゃないんです。いろいろ考えてるんですから黙ってください。」
「中尉!あそこのドーナツじゃないか?ほら、雑誌に出てたろ?」
「すごく並んでますよ。」
「いいじゃないか!」
「さっきお昼食べたばかりじゃないですか。太りますよ。」
「持ち帰ればいいだろ?」
「・・・たしかどこか夜ご飯のお店、予約してるって言ってませんでした?」
「してる。」
「ドーナツの箱は邪魔ですよ。」
「そうか。」
 ・・・疲れた。
 夜景のきれいな高層ホテルの最上階で、よくわからないが高級らしいフルコースを食べながら、リザはぐったりとしていた。
「中尉、ワイン飲む?」
「もう十分いただきましたので、お水にします。」
 これ以上のアルコールを摂取すると、一気に酔いがまわりそうだ。
「中尉、楽しかったか?」
 大佐は元気いっぱいご機嫌だ。
 リザは曖昧に微笑んだ。
「・・・そうですね。」
 しかしリザが頷くと、なぜか大佐の顔が少し曇った。
「中尉、楽しくなかったのか?」
「そんなことありませんよ。どうしたんです、急に?」
「なんか営業用の顔してる。」
 大佐の指摘に、リザは目を見開いた。
「営業用?」
「中将のセクハラをいなすときとか、セントラルのお偉い方さんの接待のときの顔だ。」
 もしかして無理して付き合ってくれたのか、と大佐がしょんぼりし始めたので、慌ててリザは手を振った。
「違います!そうじゃなくて!」
「何が悪かった?はっきり言ってくれ。」
 大佐の真剣な目に気圧されるように、リザは渋々口を開いた。
「あの・・・楽しくなかったわけじゃないですよ、本当に。」
「そうか。で、本当は?」
「あの・・・買い物は1人が好きです。」
 リザがそう白状すると、大佐はぽかんとした。
「連れがいるとゆっくり選べない、というか、やっぱり気を遣うというか。行ったり来たりするのも申し訳ないし。」
「そういうものか。」
「あとこういうお店、慣れてないのでちょっと緊張します。あとメニュー見て目眩がしました。」
「目眩?なんで?」
「お料理が高すぎて。」
「ああ。立地とかサービス料とかがあるからな。」
「あと来る前にいただいたお花なんですけど。」
「花?よかったろ?きれいだし。」
「うち、花瓶ないし。飾る場所も楽しむ時間もあまりないので。今度からプレゼントはお花じゃなくて、なんか実用性のあるものにしてください。」
「実用性?キャンドルとか化粧品とか?」
「・・・鉛筆とか消しゴムとか。」
「・・・情緒に欠けないか?」
「欠けますか?だめですか?」
「・・・いや、だめじゃない。」
 そう言って大佐は苦笑した。
「すまない。ちょっと舞い上がっていたようだ。」
「舞い上がって?」
 リザは首を傾げた。
「うん。君との初デートだったからな。女性が喜びそうなデートコースを研究したんだが、頭でっかちだったようだ。」
 そう言って大佐は肩をすくめた。
「君に楽しんでもらえなきゃ意味がないんだ。反省した。君はどういうデートをしたいのか、私に教えてくれるか?」
「そうですね。」
 リザは口元に手を当ててしばらく考え込み、やがていいことを思いついた、と言うようないたずらっぽい顔をした。
「それでは今度のデートは私がプロデュースします。」
 言われた内容に理解が追いつかないのか、彼は目をしぱたいた。
「プロデュース?」
「今日は私のためにいろいろ考えて下さったのでしょう?」
 そう言ってリザはにっこり笑った。
「だから今度は私が考えます。行き先から食事まで、すべて私にお任せ下さい。」
 やけに自信たっぷりなリザに、彼は曖昧な顔のまま頷いた。

if

「もしも君のお母さんが生きてたら」
 少し遠出してやってきたアスレチック公園で、夢中になって遊ぶ双子を見ながら彼は言った。
「君もあんな感じの子どもだったのかな。」
「どうでしょうね。」
 時折吹く風に飛ばされないように帽子を押さえながら、私は言った。

 もしも母が生きていたら。
 私はあんな目まぐるしい子ども時代は送っていなかっただろう。
 生活能力皆無の父親を抱えて。
 家事にバイトに畑に勉強に明け暮れた子ども時代は、今振り返ってみても絶対普通ではない。
「うちの親だって心配してたよ。」
 当時バイトをしていた農場の友だちは、そう言って顔をしかめた。
「うちで面倒みてもいい、ってリザのお父さんに言ったこともあるらしいよ。突っぱねられた、って言ってたけど。」
 大人になってからそういう話を聞くとびっくりする。
「あんたが元気いっぱいだったからそれ以上言わなかっただけ。何かあったら父親押しのけてでもうちで引き取る、って、うちの親がよく言ってたもの。」
 元気いっぱいだった、と言われれば確かにその通りだった。
 けれどももしも母が生きていたら。
 私はもっと子どもらしく、その元気を自分のためだけに使っていたのだろうか。

 もしも母が生きていたら。
 父の弟子であるマスタングさんのお世話も、きっと母がしていただろう。
 私は普通に学校に行き、家事もバイトもせずに友だちと遊び、家で夕飯ができるのを待ちながら宿題をしていたのかもしれない。
 そう考えて、はたと気づいた。
 バイトをしないということは、マスタングさんに迎えに来てもらう必要もないということだ。
 バイト帰りに、手を繋いでたくさん話をした。
 学校のこと、友だちのこと、木や花や虫や動物のこと、畑の野菜のこと、その他移ろいゆく季節のこと。
 もしも母が生きていて、私が普通の子ども時代を送っていたとしたら。
 マスタングさんと過ごしたバイト帰りの思い出が、すっぽりと消えてしまう。

 もしも母が生きていたら。
 私は軍人にはならなかっただろう。
 父も焔の錬金術を私に刻むことはなかったかもしれない。
 私の手で人を殺すことも、私の前で彼が人を殺すこともなかっただろうと思う。
 再会した場所は地獄だった。
 お互いに目を合わすことすら心苦しく、さらに傷を抉らないように手探りで始まった関係だった。
 軍人にならずとも、部下でなくとも、 再び出会う機会さえあれば、私は彼と恋をしたのかもしれない。
 けれどもそれでは彼の心までは守れなかった。
 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。
 けれども経験からしか知り得ないことも確かに存在する。
 彼を守り、共に戦い、2人で生きて戦場を駆け抜けることができた。
 触れることすらためらうほど手を汚したあの過去がなければ、今ほど深く、彼と繋がり合うことはできなかったかもしれない。

 もしも母が生きていたら。
 私は今ほど近くに、彼を感じることはできなかったかもしれない。
 彼の強さも弱さも、苦しみも哀しみも、私に対する愛情も、今ほど深く理解することはできなかっただろう。
 元気いっぱいだった、と友人は当時の私を評した。
 私が元気に過ごせたのは、家と、仕事と、人とのつながりと、それらを守るためのすべてを母が私に教えてくれていたからだ。
 母が私に遺したものは苦労でも不幸でもなく、今の幸せにつながる道標だった。
「もしも母が生きていたら。」
 私がそう言うと、予想外だったのか彼は驚いたように私を見た。
「私と似てたでしょうか?」
「たぶんな。」
 彼はそう言って、私の帽子に隠れるように唇で私の頬に触れた。

彼のいない夜

 認めたくはないが、独り寝の寂しい夜がある。
 たとえば副官を連れず、彼1人でセントラルに出張に行ってしまったとき。
 士官学校の射撃講習などで、数日間彼の側を離れねばならないとき。
 夜半過ぎにしとしとと雨が降り始めたことに気がついたとき。
 口にすると図に乗るだろうから、決して言葉にはしないけれども。
 リザが副官講習のため北方司令部に来て、3日目になる。講習はあと2日残っていた。
 恋人はすれ違いのタイミングでセントラルに出張だったし、その前は某テロ組織の摘発及びその後始末に忙しかった。
 仕事に忙殺されているその時は性欲、食欲、睡眠欲すべてが削ぎ落ちる。
 自分でも驚くほどストイックに仕事に集中しており、まるでそれ以外の生活は知らないかのように、家と職場の往復のみで日々は過ぎていく。
 しかし一度仕事が落ち着いて時間に余裕ができると、忘れていた本能が揺り返しのように湧き上がってくる。
 それなのに彼はリザを置いて出張に行ってしまった。
 もちろん理由はある。
 落ち着いたとはいえ、未処理案件の仕事は山積みだった。
 加えてリザには副官講習も控えていた。
 仕方ないと納得はしている。
 しかし納得していても、不満はある。
 ジクジクと火照る体をもてあまして、リザはため息をついた。
 彼とそういう仲になるまで、知らなかった感覚だ。
 知らぬ間にそんなことまで教え込まれていたのかと思うと、実に腹立たしい。
 リザはシャワーを浴びようとベッドを起き上がった。
 佐官付き副官は尉官ばかりなため、講習時の宿舎は必ずシャワー付き個室だった。
 背中を曝せないリザにはありがたい待遇だった。
 温度を調節して、少し冷たいシャワーで体を冷ます。
 ブリッグズ山ほどではないにせよ、平均気温一桁のこの北部で水のシャワーを浴びることになるとは思わなかった。
 部屋に常備されていた寝間着ではなく、持ってきた鞄から男物のTシャツを引っ張り出してかぶった。
 講習に来る前に、合い鍵でこっそり立ち寄った男の部屋から持ってきたものだ。
 自分の家の洗剤と同じものを使っているはずなのだが、くるまるとやはり彼の匂いがする。
 それから手を伸ばして鞄を引き寄せ、中を探って羊毛フェルトの黒猫を引っ張り出した。
「これを私の代理として預けよう。」
 セントラルの駅で30分だけ顔を合わせた男は、上司然とした顔でリザの手にこれを押し込んだ。
「なんですか、これ。」
 リザは手を広げて、目の前でそれを眺めた。
 黒い顔、黒いからだ、黒いしっぽ。
 三角の耳はピンと尖り、愛嬌ある大きな目がじっとこちらを見つめている。
「かわいいだろ。さっき近くの雑貨屋で買ったんだ。」
「これをあなたの代わりにかわいがればいいんですね。」
 リザはそう言うと、黒猫の鼻先にチュッとキスをした。
「・・・中尉。」
「なんですか?」
「目の前に本人がいるのにどうして代理にキスをするんだ?」
「こんな目立つ場所であなたにキスできるわけないでしょう。」
「私は気にしない。」
「気にしてください。」
「・・・不満だ。」
「お互い様です。」
「・・・どういう意味?」
「あなたは何が不満なんですか?」
「・・・君とキスしたい。」
「私もそう思ってますよ。」
 真面目な顔でそう言うと、彼は一瞬目を瞠り、にやりと唇の端をあげて顔を寄せた。
 リザは素早く猫を持っていない方の手で、それをふさいだ。
「・・・何をする。」
「それはこちらのセリフです。何をするつもりですか。」
「欲求に素直に従おうと思った。」
「時と場所をわきまえてください。」
「・・・不満だ。」
 彼は呻いた。

「自分ばっかり我慢してるような顔して。」
 リザは黒猫の鼻先を指で弾いた。
 従順な黒猫は文句も言わず、愛らしい瞳でじっとリザを見つめている。
「やっぱり代理は代理ですよ、大佐。」
 あなたの代わりにはなりません。
 リザは両手で黒猫を包み込んで鼻をくっつけた。

彼女のいない夜

 独り寝の寂しい夜がある。
 たとえば副官を連れず1人でセントラルに出張にきたとき、彼女が士官学校の講師を頼まれて数日にわたって私の側を離れるとき、夜半過ぎにしとしとと雨が降り始めたとき。
「君の声が聞きたくなったんだ。」
 電話を掛けると、彼女は呆れたような声で「バカですか」と言った。
「ひどいな。」
 そう言って私はウィスキーの入ったグラスを揺らした。
 カランと氷の溶ける音が、受話器を通して彼女に伝わる。
「お酒飲んでます?」
「眠れないんだ。」
「音楽でも聴いたらどうですか?」
「君の声の方がいい。」
 バカですね。
 さっきより幾分柔らかい声に、心が凪ぐ。
「なんか話してくれよ。」
「先週レベッカとカメリアでお茶してたら、向かいの通りを見覚えある上司が歩いてたんです。」
「・・・え?」
「その上司は1人ではなくて、小柄で茶色いショートヘアの女の子と仲むつまじく腕を組んでまして、私が見ていることなど気づきもせずに繁華街の方に・・・」
「アイザさんだ!この前摘発したテロ組織の下っ端と付き合ってて、いろいろ情報を教えてくれたからそのお礼に食事をごちそうしただけで・・・」
 クスクスと笑い声が聞こえてきて、私は顔をしかめた。
「からかうなよ。」
「申し訳ありません。」
「ちょっとくらい嫉妬してくれてもかまわんぞ。」
「あら。私が嫉妬してないとお思いですか?」
 いつになく拗ねたような声音に、今度こそ私は目を瞠った。
「ますます眠れなくなりそうだ。」
 頭をかきむしりながらそう言うと、彼女はいつもの無機質な声に戻り「体調管理も仕事のうちです」と言った。
「人を煽っておいてよく言うよ。」
「勝手に煽られて何をおっしゃってるんですか。」
「ひどい女だな、君は。今度会ったら覚悟しておきたまえよ。」
「いつ会えますかねえ。」
「え?出張は3日間だけだぞ。あさってには会えるだろう?」
「佐官付き副官講習があるんです。毎年行ってるでしょう?」
「いつ?どこで?」
「今年は明日から北方司令部です。」
「北の女王のとこか!」
 私は慌てて、手に持っていたグラスを乱暴にサイドテーブルに置いた。
 半分ほど残っていたウィスキーが、少しテーブルにこぼれた。
「ダメだ!行くな!」
「何をバカなことを。」
「女王に誘拐されたらどうするんだ!」
「バカですか。」
「君は危機感が足りないんだ!」
「アームストロング少将はブリッグズですよ。講習があるのは北方司令部です。」
「君を狙って山を下りてくるに決まってる。」
「クマじゃあるまいし。明日1度セントラルに出てそこで乗り換えます。」
「何時?」
「セントラルに着くのが11時半頃です。北行きの電車が12時3分ですけど。」
「そんな短い時間じゃ一緒に食事もできないじゃないか。」
「私を愛してるなら顔だけでも見に来られては?」
 素っ気ない口調に、私は彼女のすました顔を思い浮かべた。
 まったく言うようになったものだ。
「素直に会いたいから来てください、と言えばいいじゃないか。」
「私は別に。大佐が会いたいかな、と思っただけです。」
「会いたい。悪いか。」
「いいえ。それでは明日。お会いできるのを楽しみにしております。」
 一方的に言いたいことだけ言って、彼女はガシャンと電話を切ってしまった。
 かわいくない声、かわいくない言い方、顔だって間違いなく無表情に違いない。
 まったくかわいくない女だ。
 しかしそのかわいくない仮面に隠してるつもりらしい愛情がダダ漏れだから、やはり私の頬は緩んでしまうのである。

彼のお仕事

「おとさーん!」
 学校から帰ってきた双子が、涙目でロイに飛びついてきた。
 ロイは戸惑いながらそれを受け止め、「どうした?」と双子の目を覗き込んだ。
「おとさんはニートなの?違うよね?」
 双子の口から発せられた言葉に、ロイは絶句した。

「それで?」
 ロイから話を聞いたリザは、笑いをこらえながら先を促した。
「なんて答えたんですか?」
「おとーさんはニートじゃない。学者さんだ、と言った。」
 ロイはまだ憮然としてそう言った。
「納得しました?」
「じゃあなんでずっとおうちにいるの?お仕事してないの?ちゃんとお金もらってる?と訊かれた。」
 ロイは肩をすくめた。
「そんなのどこで聞いてくるんでしょうね。」
 リザはロイの隣に座ると、慰めるようにその黒髪をなでた。
「学校でそういう話になったんだと。ルミとルナがおとーさんは家で本を読んで勉強してる、って言ったら『それってニートじゃん』って言われたって。」
 ロイはため息をついた。
「もしかしてご近所でもそう思われてるのか?」
「私の友だちはみんなあなたが元軍人だということも、錬金術師だってことも、大学で講師してることも知ってますよ。」
「非常勤だけどな。」
「たった3年でドクターの学位までとるなんてすごいことなんでしょ?」
「うん。でも子どもたちにはわからないよな。」
 ロイはリザのひざに頭をのせると、リザのお腹にぐりぐりと額をこすりつけた。
「ニートって。いくらなんでもニートはひどくないか。」
「そうじゃない、ってことくらい子どもたちもわかってますよ。」
 リザは苦笑した。
「それにほんのちょっと前まで過労気味なくらい働いてたじゃないですか。それこそ朝から晩までプライベートもつぶして丸20年も。ちょっと家でごろごろしてたってニートでも何でもありませんよ。誰かに訊かれたら『休暇中です』ですむ話です。」
「子どもたちには格好いいお父さんでいたいじゃないか。」
「あなたは十分格好いいですよ。まったく問題ありません。」
 さらりと言われた言葉にロイは目を瞠り、むくりと起き上がった。
 ぐいっ、と顔を近づけられて、リザは思わず後ろに体をひいた。
「何ですか?」
「君に『格好いい』と言われた。」
「は?」
「なんていうか・・・ぐっときた。」
「・・・はぁ。」
「ぐっときて・・・熱くなった。」
「はあ?」
 さらに近づかれて逃げ場がなくなり、リザはベッドに押し倒された。
「ちょっと!」
「何?」
「何するんですか!」
「夫婦のスキンシップ。」
「明日は大学に行く日でしょ!」
「午後からだ。何も問題ない。」
「あなたはそうかもしれませんが、私は朝から図書館に行く予定なんです!」
「君も勉強熱心だよな。それで?来年どこを受験するか決めたのか?」
「農学部か保険福祉学部の栄養学科か悩み中です。」
「食べ物からは離れないんだな。食いしん坊め。」
「放っといてください。」


彼女のセンス

 珍しく自分の部屋ではなく、リザはリビングで何かを読みふけっていた。
 師匠の課題に煮詰まっていたロイはコーヒーでも淹れようと下に降りてきたのだが、熱心なリザの様子に好奇心を刺激された。
「何を読んでるんだ?」
 そう言って覗き込むと、リザはちらりとロイを見た。
「雑誌です。」
 リザの返事は簡潔だった。
「友だちに借りたんです。」
「ふーん。」
 どうやら映画雑誌のようだったが、リザの開いているページは若い男の子のインタビュー記事だった。
 ロイとさほど年の違わないらしい少年が、爽やかな笑みを浮かべて一面を飾っている。
「こういう子がタイプなのか?」
 ロイがそう訊くと、リザはきょとんとした。
「こういう子って?」
「だからこいつ・・・名前なんていうんだ?」
「ああ。別に興味ないです。今度彼が出る映画に興味があるだけです。」
「へえ。じゃあリザはどういうのがタイプなんだ?」
「・・・そうですね。」
 リザはパラパラとページをめくり、思案した。
「あ、この人とか。」
 リザの指さした写真を見て、ロイは硬直した。
 でかいバイクにまたがり、サングラスをかけ、ごつい大砲のような銃を抱えた筋肉質の男が写っている。
 どうやら夏に公開されるアクション映画の主人公らしい。
「アーロン・シュヴァルツです。かっこいいですよね。」
「・・・リザ。アクションが好きなのか?」
「映画の話ですか?アクションもコメディもラブストーリーも何でも好きですよ。」
「そうか。」
「あ、映画と言えばロビー・ウィリーのジマンジュも楽しみですね。サイとか象とかライオンとか出てくるんですよ。」
「そのロビーなんとかっていうのはどれだ?」
「えーと、あ、この人です。」
 それはおっさんだった。
 四角い顔でやや垂れ目で目尻にしわの目立つ、さえない風貌のまごう事なきおっさん。
「この人も好きなんですよ。すごくいい役者さんなんです。ミセス・アウトとかパッチ・アダミィとか。」
「好き・・・なのか?」
「はい。この人、すごいんですよ。魅力的、っていうか。コメディもシリアスもなんでもできるんです。この人がいるってだけでなんか安心して映画が見れるんですよね。」
 リザの目は、うっとりとしか形容できなかった。
 どうしよう。
 爽やかスマイルならそこらへんの映画俳優にも劣らないと自負するロイだが、相手がおっさんだとさすがに分が悪い。
 しかもロイはどちらかというと細身のタイプだった。
 アクションスターのたくましさには逆立ちしてもかないそうにない。
「マスタングさん、どうしたんですか?お腹すいたとか?」
 どこか物憂げな表情で考え込んでしまったロイに、リザは心配そうにそう尋ねた。

 せっかく河原に遊びに来たというのに、子どもたちは川の水より河原の小石に夢中だ。
 こぶし大のものから小さな小石に至るまで、片っ端からアームストロング像に錬成してしまう。
 最近は等身大ではなく、いかに小さくて精巧なアームストロング像を作るかが、双子のマイブームらしい。
「あれ、持って帰るって言い出したらどうしよう。」
 ロイが不安を吐露すると、リザはおかしそうに笑った。
「あら、あのサイズならかわいいじゃないですか。」
 ロイはおもわず妻の顔をじっと見つめた。
「・・・なんですか?」
「もし出会う順番が違っていたら、君は私とではなくアームストロングと結婚してたかもな。」
 リザは目を見開き、そしてふきだした。
「なんで?え?アームストロング少将と?あ、もう少将じゃないですけど。その発想はなかったですね。うーん、あなた以外の人とどうこうって考えたこともなかったですけどどうしてそう思ったんですか?」
「だって昔、あんな感じのアクションスターが好きだって言ってたじゃないか。ムキムキの。」
「そうでしたっけ?覚えてませんけど。」
「私は覚えてるぞ。君には一生恋愛対象に入れてもらえないかもしれない、と絶望したからな。」
「そんな大げさな。」
 おとさーん!おかさーん!見てー!
 そう言って双子とチビの弟が両手いっぱいのアームストロング像を持ってくる。
 ポーズや表情が全部違っていて、ロイは苦笑した。
「これ、どうするんだ?」
「持って帰る!」
「出窓に飾っときましょうか。」
 リザは親指サイズのアームストロング像を手に、楽しそうにそう言った。
 その後しばらくの間、家中至る所から小さなアームストロングと遭遇することとなり、ロイは辟易とした。
 冷蔵庫を開けてアームストロングと目が合ってしまったときはさすがに声を出してしまい、子どもたちに食べ物の門番は不要であると懇々と説教することになった。

 まだ少ししびれている足を引きずるようにして家路を急いでいると、ハボックの目の前を小さな光が横切った。
「ん?蛍?」
 足を止めて、ハボックはあたりを見回した。
 イーストシティを流れる一級河川の傍流にあたるさほど広くもない川には、よく見るとたくさんの蛍が心許なくフワリフワリと光っていた。
「へえ、知らなかったな。」
 蛍を見に来たらしい人たちが、川沿いをゆっくり歩いている。
 その中に見慣れた金髪を見つけて、ハボックは目を丸くした。
「・・・大尉?」
 よく見ると隣にいるのは黒髪の上司だった。
 黒い髪、黒いシャツ、黒いスラックスという黒ずくめの格好で見にくかったのだ。
 おまけに連れてる犬も黒ときている。
 2人は手を繋ぎ、時折蛍を見ながら足を止めては楽しそうに話していた。
 その様子はすっかり家族として馴染んでいて、ハボックは不思議な気持ちでそれを眺めた。
 約束の日以降、一緒に暮らすようになったとは聞いていたが、職場の2人は依然として上司と部下だった。
 大尉が准将を叱りつけ、尻を叩いて職務を回す。
 こっちにきて大尉も役職付きとなったので、大尉は准将の面倒に加えて部下に指示も出さねばならない。
 前にも増して殺気立っている様子の大尉に内心戦いていたのだが、今前を歩いている彼女にそんな様子はみじんも感じなかった。
 内緒話をするように、准将が大尉の耳に口を近づける。
 その際に何かいたずらでもしたのか、大尉はばっと手を離して耳を押さえ、准将をにらんでその肩をバシバシと叩いた。
 准将はというと、してやったりとドヤ顔で、「痛い痛い」と言いながら笑っている。
 なんだろう、この筆舌しがたい虚無感は。
 ハボックは肩をすくめ、「大尉!准将!」と声をかけた。
「なんだ、ハボックか。」
「少尉。今帰り?」
 2人は特に驚いた様子もなく、振り向いてそう言った。
「おまえ、1人か?」
 准将はハボックにそう訊いた。
 さっき離れていたはずの手は、既にしっかりと大尉と繋がれている。
「1人ですけど。何でですか?」
「ここは有名なデートスポットだぞ。男1人で虚しくないか?」
「余計なお世話っすよ。ここ抜けるのが一番近道なんですよ。そういうお2人はデートっすか?」
 半ば自棄になってそう言うと、察しのいい大尉は非難するような目を向けて准将の肩をつついた。
「少尉、ご飯はすんだの?」
 大尉の優しい問いかけに、涙が出そうだ。
「いや、これからっす。つってもそこらへんで弁当でも買う予定ですけど。」
「うちにくる?パスタだけど。」
「おい、リザ。」
 准将は不服そうに口を尖らせた。
「なんでこいつなんか誘うんだ。いちゃいちゃできないじゃないか。」
「いちゃいちゃなんてしませんよ。何言ってるんですか。」
「なんで?」
「何でって。明日も仕事でしょう。ご飯食べたらさっさとお風呂入って寝ますよ。」
「明日も仕事だから英気を養うんだ。」
「はいはい。英気は勝手に養って下さってかまいませんが、少尉を夕飯に誘うくらいいいでしょ。」
「言っておくがハボックがいるからって私は我慢しないぞ。」
「・・・何をですか?」
「いちゃいちゃだ。」
「・・・少尉と?」
「気持ち悪いこと言うな!君とに決まってる!」
 目の前で繰り広げられる惚気としか表現しようのない言い合いに、ハボックは脱力した。
「ああ、大尉。お気持ちだけもらっときます。俺も早く帰って寝たいんで。」
 もちろんそれは言い訳で、女日照りの身にこの無意識のラブモードは精神的にちょっとキツい。
「そう?遠慮しなくていいのに。」
 ハボックの葛藤などまったく気づかない様子で、大尉はちょっと小首を傾げた。
「ほら。ハボックはいらんと言ってるじゃないか。」
 准将はニヤニヤしながら大尉の肩を抱いた。
 この人は絶対わかってやってるに違いない。
 歯軋りしたくなるのをこらえながら、ハボックは引きつった笑みを浮かべた。
「じゃあな、ハボック。早く誰か一緒に歩いてくれるといいな。」
 准将は大尉を促すと、さっさとハボックに背を向けた。
「なんであんな意地悪言うんですか。」
「なんであいつを家にいれなきゃいけないんだ。」
「部下を労ってもバチは当たらないと思いますけど。」
「そういうのは外でやるんだ。」
「ヒューズ准将はよく来てたじゃないですか。」
「別に呼んだわけじゃない。あいつが勝手に来てたんだ。君と2人きりのとこを邪魔されてあれもイライラしてたんだ。」
「へー、初めて聞きました。」
 あれ?この2人が一緒に住みだしたのって最近だよな。
 なんでヒューズ准将が押しかけてイライラなんて話になってんだろうな。
 一瞬、心に疑問が浮かんだが、ハボックは自分のために、それを押し込めてふたをした。